<テバコラ 第12話>        

 

☆Ganot Collection を鑑賞する☆(1999/12/11)


ガノット氏(Adolphe Ganot@1804−1884)はフランスの人で、彼の理科の教科書は、

前世紀の後半、全世界で使われていました。本格的な近代物理学教科書としては

アンモナイト級の古さと普遍性を誇るものです。英語バージョンの場合、1860年代から

1890年代にかけて、アメリカで盛んに使われたようです。


私の手許にあるものは、革装の1872年再版ものですが、初版は63年となっています。

明治初頭の欧米に派遣された貧乏留学生が、なけなしの生活費を切り詰めて、本屋の前で

四苦八苦している光景が目に浮かんできます。1インチ弱の厚さのものですが、これが、

1893年の全面改定版になると2インチ半くらいになっているようです。

残念ながら、93年版の内容は見たことがありません。


ガノット氏(あるいは「ガノ氏」)の教科書の特徴は、何と言っても、豊富な木版画にある

とされます。版画自身のハンサムとしか言いようのない美しさと、これを懇切に解説した

本文との間に醸し出されるリエゾンの美しさ、この二つの美です。ガッコの教科書に

「美」を感ずるというこの感性!


本文云々は、煩瑣なので省略しますが、何はともあれ、版画の世界を純粋に

楽しんで頂ければと思い上梓しました。


たとえば「力の向き」と題された図版です。

なぜ彼女は鞭を振るうのか、男の子のアンニュイな表情は何を訴えるのか。

苦痛?あるいは喜び?いいや、これはひょっとしたら、20世紀末の我々の家庭生活を

あまりにも正確に予言していたものなのか

……などと、深く、深く考えてしまいます。

これが、現今の教科書では、単に長方形(物体)と直線(紐)と矢印程度のポンチ絵で

表現されてしまいます。その結果、「力の向き」という、家庭生活、サラリーマン人生、

男女の混沌関係等々、今後遭遇するに違いない、ありとあらゆる人生の機微に通ずる

極めて有用な概念を、現代の理科の授業では、子供達が身につけることができなく

なっているのです。


知りませんでした。前世紀には「電気火花」が「気晴らし」だったようです。

しかも、ペティコートまで着用して盛装した若い女の子のお楽しみだったとは!

このごろの女の子が、アーパー(死語)な格好で携帯電話を気晴らしにしていることと

比べると、何と威儀正しく、しかも凛々しかったことでしょう。もしもあなたに息子さんがいる

なら、”電気火花がスキ”という彼女を、是非花嫁候補の一人として検討してみてください。


水の中の魚」のポイントは屈折する光の経路、なんかではありません。その背景の

バロックな庭園にあるのです。アラバスターあるいは白大理石でできた彫像、

その奥に続く密林風の庭園。世界が奇々怪々な驚異に満ちていることを、この少年は

遊びの中から自然に身につけるのです。現代のコンクリートと鉄でできた児童公園や

小学校の無機質さといったらありません。そんな無機的な環境に置かれた子供や

公園ママが、直情的な行動を取ってしまうのもむべなるべしです。ちょっと気になるのは

彫像です。亀ではなくて白鳥をいじめてます。

電磁気学的マシン」については、ガジェットおたくの方々なら解説不要。

そうでない方々には説明無用です。とにかく、目的不明の素晴らしいマシンです。


マグデブルクの半球」は、私の古い記憶では何頭もの馬が引き合っているものでした。

ところがこれは兄弟喧嘩でしょうか。ほほえましい光景です。ゆえに現代民法では、こうした

トラブルを想定して、相続に関する詳しい規定を設けているのです。

ま、誰が見ても兄貴の方が強そうです。


顕微鏡」では、何と、外光の焦点がもろプレパラートにあたっています。

これでは、細胞膜もDNAもあったものではありません。焦げるか燃えるかしてしまいます。

何故19世紀に分子生物学が成立しなかったのか、あるいは後世に電子顕微鏡が

必要だったのかが理解できました。でも、「逆噴射型目薬注入器」と題されていても、

ふーんなるほど、と思ってしまいそうな版画ですよね。


何と題すればよいのか、”Return Shock”。「瞬電」あるいは「サンダー・ダンス」でしょうか。

ともかく迫力は抜群です。ピリピリとした緊張感が伝わってきます。

ガノット氏が生まれ育ったフランスの片田舎の夕刻の風景でしょう。

近くの小川でドジョウや小ブナを捕っての帰り途、ガノット坊やもこんな夕立に

遭ったら大変です。


伝声管」に向かって何か指図している向上心のかたまりのような因業おやじ、

ひょっとしたらクリスマスキャロルのスクルージかもしれません。そういえば商工ローンの

はしりみたいな物語でしたね。伝声管の向こうでは、若い営業マンが縮み上がっている

ことでしょう。スクルージは最後には悔い改め、ポトラッチ(大盤振る舞い)などをしていましたが、

現代のスクルージはどうするのでしょう。そうそう、もうすぐですね。メリー・クリスマス!!


それにしても、もう夜。

辺りに人もいないというのに「ニュートン式望遠鏡」や「望遠鏡」を使って観測をしている

天文学者の服装が美事にキチンとしていることはどうでしょう。「衿ヲ正ス」ことが死語に

なってしまった現代、無窮の宇宙の果てしない神秘に対峙する姿勢も狂ってきては

いないでしょうか。(NASDAの広報担当者は背広にネクタイでしたが、)NASAの

火星屋どもが、2億ドル近い資産を宇宙の粗大ゴミにしておきながら、ノーネクタイで

悪びれもせずに記者会見していたシーンと対比してみてください。

19世紀人の敬虔さ律儀さには改めて感動してしまうのです。


思えば、放射能も素粒子もロケットもPCもなかった時代です。

適度の科学技術が、未来にハンナリとした希望を与えていたことを伺うことができます。

1893年版が3倍近い厚みになっていることには、むしろ、何か不吉なものを感じます。

高度な科学技術の1999年の今日、ガノット氏の方法で教科書を作ると、

果たしてどのくらいの厚みになるのでしょうか。



(原註)Cリントン大統領の記者会見では、マーズ云々のコストは1.6億ドルと言ってました。

    しかし、これにはNASAの火星屋等の人件費が入っていません。