<テバコラ 第11話>



☆贈与論考☆(1999/11/23)



二千円札が発行されるという。



一国に流通している通貨の種類には、どんな意味があるのだろうか。

民族の治乱興亡、栄枯盛衰がかかっているのだという人さえいる。

紙幣について言うと、たった3種の紙幣しか持たないのは、日本と韓国だけであるという。

アメリカでは、11種もの紙幣を発行しているではないか。従って、先進国の仲間入りをし、

安保理常任理事国になるためには、日本ももっと券種を増やすべきである。ゆえに、

二千円紙幣は是非発行すべきである、と、こうなっているらしい。

これに対し、いったい何に使うんだ、無駄だ、只の人気取りだ、という反対論もあるらしい。



百歩譲ろう。日本は、国際的な立ち遅れを挽回するために、紙幣の券種を

増やさなければならないのだとしよう。とすると、たった一種の券種を巡って、

侃侃諤諤の議論をすることは無意味である。流通経済学的合理性を損なわないためには、

現行の三種を倍の六種にしてやることである。すなわち、千五十円札、五千二百五十円札、

一万五百円札という、外税札(そとぜいさつ)を発行すればよい。1000円の品物を買う

時には、ピッと千五十円札で払えばよい。小銭がいらず、釣りいらず。何と合理的なことか。

確かに、券種の多さは文明の高度さのあかし、といえるのかも知れない。消費税率が

変わった瞬間、この外税札はたちまち、西郷札と並び、コレクター垂涎の蒐集対象へと

早変わりし、「お宝」という経済財に変身する。



しかし、そう頻繁に千円の買い物があるわけではない。補助貨幣たる硬貨の方が

庶民にとっては重要であろう。ここで、四円五十銭硬貨があれば便利だ。90円のチョコを

買う場合などを考えればわかる。現行の一円玉を最小とする通貨体系では、

百円玉を1枚出すと、『クゴヨンジュウゴ、だから、切り捨てて、ヨン、ん〜と、だから、

100引く[90足すヨン]はロク、え〜と、だから、6円のおつり』、などと、売買に携わる

双方ともが、膨大な量の暗算を強いられているのが現状だ。看板娘がおばあさんの場合、

すでに計算を済ませている客の方は、浮動小数点計算を繰り返しつつ検算に悶える

おばあさんをジッと見つめるはめになる。ところが、四円五十銭硬貨さえあれば、客は、

十円玉9枚と四円五十銭玉1枚とを、気っ風良くパチパチパッチンと看板ばあさんの前に置き、

「釣りはいらねえョ(ないけど)」とイナセに立ち去ることができるのだ。



ここで心配性の方は、消費税率が7%にあがった時のことを考えてしまう。

しかし心配御無用。六円三十銭硬貨を発行すればよい。何といっても、金種の多さは

文明のバロメータなのだから。もっともっと心配性の方は、それまでの四円五十銭硬貨は

どうなってしまうのだ、などと言い出すことだろう。もうおわかりだろう、一円八十銭硬貨も

同時に発行するのだ。これで本邦の通貨体系は、更に一段と文明的になる。



税金の話は不愉快だ、という人も多いと思う。わらしべ長者物語だってそうだ。

もし、すべての交換について、取引税だの贈与税だの所得税だのを取られていたとしたら、

あの話は決して成立するものではない。あの姓名不祥、住所不定のわらしべの若者は、

一生を貧乏で無名なホームレスとして終わるに相違ない。

実は、貨幣文化には、どうしてもある種の胡散臭さ、やり切れなさがつきまとうのだ。

井原西鶴などがその辺を詳しく論じていることは、つとに名高い。

  【これは、貨幣文化の恩恵に浴していないから言っているのではない。断じて!】



ここで贈与論へと話は進む。



貨幣文化が成立する以前、文明のあけぼの以来、ずっと人類の営みと共にあった、

あの豊饒で滋味深い贈答文化である。マルセル・モースが、北米インディアン達の間に

行われている「ポトラッチ」という贈与慣行を発見したのは、今世紀に入ってからのことである。

部族の中でも比較的裕福なインディアンのうちのある者が、ある日突然ポトラッチを開始する。

部族じゅうの人間に、食べきれないほどのご馳走を配り、持ちきれないほどの贈り物を与える。

それでも使い切れなかった家財、什器のたぐいは、これを徹底的に壊してしまうのだという。

その結果、ポトラッチを行ったインディアンは、あっという間に無一物、

部族最貧のインディアンになってしまう。次は、別の比較的富裕なインディアンの番である。

まわりでは、今度はあいつの番だ、などと見当をつけている。見当をつけられていながら

ポトラッチをすっぽかすと大変である。彼は、部族会議の決定により、最後にポトラッチを

敢行したインディアンの奴隷にされてしまうのだ。

彼は否応なく必死にポトラッチを行うことになる。



ここにはある種の豊かさが感じられる。なぜなら、ポトラッチを行えるためには、

蓄財のための勤倹力行と、一瞬のうちに散財ができる男らしさ、という二つの背反する

美徳を一身に兼ね備えている必要があるからである。ちなみにこの風習は、

その意味が解らない白人によって、その後禁止されてしまったという。

白人が貨幣文化の強力な信奉者であることは、言うを待たない。



子供の頃からずっと悩んでいることがある。

郵政省発行のお年玉付き年賀はがきのことである。

通常のものと、寄附金付きのものとの二種類がある。来年は、前者が50円、後者が55円

になるらしい。問題は二種類を同時に持っているときに起こる。私だけかも知れないが、

目上の人にはどうしても寄附金付きの高い方を出してしまう。逆に、同僚や後輩には、

どちらかというと安いやつを使ってしまう傾向がある。これは、いったいどうした心の働き

なのであろうか。別に、差し出す相手の人に寄付をする訳ではないの。だから、どちらを

使っても一緒ではないか、とも思う。とはいえ、原価が違うわけだし、

まさか目上の人に安い方のはがきを使うわけにもいかず

        ………… 毎年のように思い悩みつつ、馬齢を重ねてきたのである



ここで気づいたのだ。元来、年賀はがきは、贈答文化に属していたものなのだ。

だから「お年玉付き」というカンムリが、極くすんなりと居心地良く上に据わることになる。

ところが、である。郵政省のはがきの「お年玉」とは実は「くじ」なのであって、その証拠に、

電動自転車(1等賞)やお年玉切手シート(4等賞)は全員に漏れなく当たるわけではない。

そして、あたり外れのある「くじ」というものは、すぐれて貨幣文化の産物なのだ。

更には「寄附金」が、古着、古毛布などの「寄附物」とは、その文化論的性格を大きく

異にすることについては、いわずもがなである。その結果、二種類の価格の年賀はがきが

平然と登場する。ここに人は、貨幣文化と贈答文化のハザマに引き裂かれ、悩み、

絶望する自分を発見することになる。



ここで提案。郵政省のお年玉付き年賀はがきを、本来の贈答文化に引き戻す改革である。

日本一、いや、世界一大金持ちの郵政省としては、この際、ちょっとだけ思い切って、

ポトラッチお年玉付き年賀状を出したらどうだろうか。年賀状の発売枚数は約42億枚だという。

すると、220兆円の郵便貯金を均等割りすると、50円の年賀状1枚あたり約5万円の

お年玉をつけることができる。抽選なぞはいらない。郵便局に持ち込むと、当選番号の

確認の必要もなく、1枚につき5万円がもらえるのである。数百枚の年賀状を貰う人は、

もうそれだけで、片道2時間の通勤を我慢すれば、田園地帯に戸建てが買える

(田園調布ではありません……入念)

これこそ、究極の経済対策であり、ミレニアムの名にふさわしいプロジェクトである。

日本国・郵政省の名が、勤倹力行、雄々しさのオーラとともに、二十一世紀を通じて

世界に語り継がれることは間違いない。さらに老婆心ながら申し上げると、郵政省の方々、

その後の心配はいりません。これはポトラッチなのだから、国民は順番に大散財をします。

そのトキは、あなたもお相伴にあずかれますよ、きっと。