<テバコラ 第51話>


☆津軽へ……そして☆
                     
(2000/07/22)



奴豆国が筑紫平野から阿蘇一帯に建国したころの大陸は、秦末、漢初の

大動乱の渦中にあったということは、既に述べた。現在の北京付近から

山東半島にかけての、燕や斉といった国々からは、亡民が多数発生し、

地続きの韓半島へと流入する。仁者箕子が封じられた朝鮮の国は、燕から

流れてきた投降将軍・衛満のクーデタによって、やすやすと乗っ取られてしまう。

箕子の末裔の王族は、多くの民を伴い、半島南部に逃れ馬韓を建国する。

しかし中華帝国の手は容赦ない。漢は武帝の代にいたり、ついに衛氏朝鮮を

滅ぼし、ここに楽浪郡などの四郡を置く。漢の統治を忌避する衛氏の遺民は、

半島南部・馬韓へと逃げ込む。この圧迫を受け、馬韓の貴人・庶人は、さらに

南下せざるを得なくなる……そこには日本海が広がる。


壮大な玉突きの結果として、箕子朝鮮の亡民が、大挙海を渡り、「倭」に押し寄せて

きたのである。すなわち、天孫族の大渡海である。彼らは九州北部に始まり、出雲、

越(コシ)を経て、ついには佐渡にまで至るという、汎日本海・天孫族国家連合を打ち

建てたのである。北部九州に上陸した天孫族は特に精強で、奴豆国の地である

筑紫平野へ、阿蘇へと、怒濤の如く押し寄せてきた。わずかな抵抗の後、奴豆国は、

天孫族により征服された。なお、阿蘇一帯は、天孫族からも、神聖視され、国家連合の

統治センターとして位置づけられる。アマテラス(卑弥呼)をはじめ八百万の神々の

集う所となり、高天原(たかまがはら)と呼ばれることになる。


天孫族の支配を嫌い、亡命をはかる奴豆国の残党があった。しかし、いずかたへ?

瀬戸内から東海にかけての地域は、天孫族がまだ進出してはいないものの、

はるか以前から、縄文・弥生混成諸族の勢力圏である。背後から天孫族が迫っている

という状況下で、活路を開き根拠を築くといった悠長なことをことをしている暇はない。

残された道はやはり海であった。亡命者たちは、日本海に船出する道を選んだ。

対馬海流に乗る。天孫族がすでに建国を開始している、出雲や但馬や佐渡を避け、

北上を続ける。そして、ついに天孫族支配の外に脱出したのである。津軽半島の

十三湖にほど近い、権現岬に上陸を果たした。そして、ここにもう一つ、徐福上陸伝説を

残すことになる。


彼らの一族は、奴豆国の故地にちなんで、阿蘇辺(あそべ)族と呼ばれ、初期の

指導者の兄弟は、安日彦(あびひこ)、長髄彦(ながすねひこ)と名乗っていた。

彼らが安倍氏、安東氏などの祖になることも含め、その後のことは、かの奇書

「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」に記されているとおりである。子孫たちは

奥州全域に広がり、この地域の進取開発を、強力に押し進めることになる。そして、

安倍貞任や千代童子の時代に至るまで、糸引納豆の製法を伝承し続けたことは、

言うまでもない。

                   (つづくなら第39話へ)