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☆★☆- ホンの幕間 -☆★☆

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[ 駐沖大使 ]
正式には「沖縄駐箚特命全権日本國大使」とかいうことになるのでしょう。他の都道府県には絶対に置かれていないポストだと思います。沖縄の地位の高さの象徴とも言えます。

「またまた交替しそう」の話が琉球新報に出ていました。これで5代目だということです。神戸の某企業よりハイピッチです。やれやれと思いつつも、ちょっと調べてみました。「沖縄駐箚特命全権日本國大使」の歴代由来書です。

@初代氏(1997.02-1999.05)

 駐チュニジア大使 → 沖縄 → 駐マレーシア大使 → (退官:沖縄に移住)

A2代目氏(1999.05-2001.02)

 駐マレーシア大使 → 沖縄 → 駐ドイツ大使
               → 駐ロシア大使(2002.07-現在も活躍中)

B3代目氏(2001.02-2003.01)

 駐シンガポール大使 → 沖縄 → 駐オーストリア大使 → (退官:商社顧問)

C4代目氏(2003.01-2004.11)

 駐パキスタン大使 → 沖縄 → 駐カナダ大使(予定)

D5代目氏(2004.11-?)

 駐ミャンマー大使 → 沖縄(予定)

個々の方には面識も関係もありません。全て公開の情報から集めました。

前任地と後任地をじっくり見ていると、沖縄の位置づけの微妙な変化が読み取れます。大使というものは一国の主権の代理者です。場合によっては戦争か平和かのボタンを選択する立場にもなります。ちなみに日露戦争が終わるまで、大日本帝國は大使を一人も派遣していませんでした。せいぜい公使だったのです。もちろん欧米の列強国も公使しか派遣してくれませんでした。国際関係では現在既に死語に等しい「○等国」という概念が今に至るまで生きているのです。

同一人物がA国大使→B国大使→C国大使と異動したとすると、送り込んだ本国は、A国<B国<C国という判断をしているということになります。本当のことですから、受け入れる国からそう解釈されても文句は言えません。チュニジア⇒マレーシア⇒シンガポール⇒パキスタン⇒ミャンマー、これが前任地です。後任地を拾っていくと、マレーシア⇒ドイツ⇒オーストリア⇒カナダ(予定)となります。意味ありげな、無意味なような・・・外務副大臣ぐらいにしかわからない時系列ですね。

受け入れ国(接受国)はアグレマンを与える・与えないということで、受け入れの可否を選択できます。例の優雅(grace)な表現を使うなら、アグレマン一枚で「不快の念」を表現することができるのです。ジュネーブ条約でも、次のようになっています。

「派遣国は、自国が使節団の長として接受国に派遣しようとする者について接受国のアグレマンが与えられていることを確認しなければならない」

詳細なルールに昏いので良くわかりませんが、各大使の沖縄の前・後任地にあがっている国々のランキングはどうなっているのでしょうか。また、駐沖大使にはアグレマンがあるのでしょうか。あるとしたら誰が与えているのでしょうか。
2004/11/28(Sun) 晴れ


[ ソリティアな時代への挽歌 ]
Windows3.1がデビューしたころからの伝統の「おまけ」です。つまり、「あのゲーム」のことです。

一般には"Solitaire"とは、無聊人のための一人遊びゲームの総称ですね。ゲームボーイ(非対戦型)なんてものも、広義にはこの仲間になります。詰め碁、詰め将棋もそうなんでしょうね。しかしカードのことが多いのです。道具立てがグローバルでシンプルだからなのでしょう。中世のシャトーの一室で、囚われの姫君がカードを繰りながら、「王子様は来る、王子様は来ない、・・・」なーんてやっているシーンも思い浮かばれます。こればかりは詰め将棋では絵になりません。カードゲームだけで100種も200種もあって、本まで出ています。ここまでくるとあんまりソリティアなムードじゃないですが。

ところでそんなi486時代の話です。数上がりと数下がりのシーケンスを組み合わせて四組のスーツが完成すると、突然、カードが散り始めます。これが見たくてハマッたものです。一晩ぐらいは軽くやったものです。

そのうちにアタマの良い人が出てきます。あのカードが散る速度はPCの性能の総合評価に使える、ということです。たしかにそうです。CPUのクロックとかグラフィック資源とかが大変に貧弱な時代のことでした。PCショップの店頭で簡単にチェックできるのですから、これは便利・・・なのですが、ここにデッドロックな人が出てきました。何回やっても完成しないよ、徹夜でやってもせいぜい4回だもんね、もちろんその瞬間は嬉しいけど、というような人が登場してきました。この方の場合、PCショップが閉まってしまうそうです。

この苦情は、当時のカストリPC誌で見かけました。もちろん、誰も相手にしません。このゲームは初期条件で全てが決まります。何度でも「カードを配り直す」をやって、必勝態勢になったところで始めればいいわけで、こんなことは大抵の「ソリティア・ファン」はやっていたのでした。

現在、クロックはギガになっています。なのに、i486時代よりもカードの散逸速度は遅くなっています。もはやベンチマークテストには使えません。ちょっと淋しい。
2004/11/23(Tue) 晴れ


[ 民工エンジン ]
 
「民工」   農村からの出稼ぎ労働者

「民工潮」  出稼ぎ目的の農村からの都市への大量の人口移動現象
       以前は「盲流」と呼ばれた

「民工荒」  民工が就業先を選別して慢性的な労働力不足が続く現象

上海世界博に向けたインフラ整備を支えているのはこの民工さんたちです。軍手と呼ばれる作業用手袋がありますが、彼らは厳冬期に軍手もなく作業をしているようです。理由は明快です。軍手は彼らの日当の何日分にもなるからです。商社の人に聞きますと、この軍手を山のように携えて行くと、現地の公司の幹部に大歓迎されるようです。模範的民工への報奨品として大変に人気があるようです。阿片貿易あるいは飢餓輸出という往年の言葉が思い出されます。勤勉さにも定評があるようです。それはそうです。遅刻でもしようものなら即刻クビです。「お代わりはいくらでもいる」ということです。

中央政府は都会と農村の格差を是正しようと必死なのだそうですが、そもそもこの格差がエネルギー源なのですから始末におえない。これは熱力学の冷酷な法則なのです。温度差がないところからは「仕事」を取り出すことができません。燃焼による高熱と外気との温度差がなければ、エンジンは動きません。

 中央政府が政策をたてると、地方政府は対策をたてる

ということで、この民工エンジンは回り続けます。

今日的日本の状況はその反面教師になります。全員が温度差のないぬるま湯に漬かっていれば、誰も動きません。苦労はご免、ということです。6・3・3・4で徹底的に「ぬるま湯」人生を叩き込まれます。経済三流、政治五流、外交七流、国民漂流、の一丁上がりです。
2004/11/06(Sat) 晴れ


[ グッド・サマリタン ]
 
 −−− 以下、引用 −−−

ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。イエスが「律法には何と書いてあるか」と言われると、彼は答えた。「「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また隣人を自分のように愛しなさい」とあります」。イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば正しい命が得られる」。

しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、私の隣人とは誰ですか」と言った。

イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下っていく途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じようにレビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います」。

さて、あなたはこの3人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい」。

 −−− 以上、引用 −−−

ルカによる福音書の「善きサマリア人」のくだりです。この祭司は、エリコでの宗教儀式を控えていたため「けがれ」を恐れていたといいます。レビ人というのは、大変に信仰厚く行いの正しい民として知られていました。ところがその彼は「さわらぬ神にたたりなし」を決め込んだわけです。その反対に、サマリア人という民族は、当時、人々から蔑まれていたようです。しかしながら、そのサマリア人こそが「隣人」だったというのです。こうしたイエスの価値判断は、当時の貴賤観に完全に逆行するもので、例によって人々に衝撃を与えたのでした。

このエピソードから生まれた「善きサマリア人の法理」というものがあります。例えば災害時に被災者の一群を誘導した人がいて、その結果かえって危険な状況に陥れてしまったというような局面に適用されます。こうした際にこの人は、その意図において善であれば過失責任は問われないというものです。念のために言い添えますと、この法理は日本では医療行為、救命行為などのごく限られた場合にしか確立していません。一般的には不法行為として争われるおそれがあります。ボランティア活動などで時々問題になります。

それはそれとして気の毒に思うのは、ここに名前を残すことになってしまった「サマリア人」です。彼らは蔑むべき連中である、という一般認識があったからこそこの話は成り立っているのです。レッテルを貼られてしまって二千年。これからもたった一人の「善きサマリア人」がいたために、これが話題になる度に「一般には碌でもないサマリア人」が背景としてイメージされることでしょう。たった一人が珍しく善いことをしてしまったために。
2004/11/02(Tue) 晴れ

My Diary Version 1.21
[ 管理者:テバ 著作:じゃわ 画像:牛飼い ]