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☆★☆- ホンの幕間 -☆★☆

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[ ポポル・ヴー ]
・・・太初(はじめ)にトウモロコシがあった。摩訶不思議な作用(神?)により、人間がトウモロコシから造られる。生命は無限に続く驚異の循環(輪廻?)の中にある。この転変の過程のどこかで、人間は大地へと回帰する。大地(土壌)はトウモロコシの形に再構成される。トウモロコシは人間(特にその心と魂)を養う。マヤの教典 Popol Vuh は、世界の成り立ちをそのように語る。海に漂うクラゲと茄子から誕生した国もあるのだから、驚く必要はない。

このような世界は、近代西欧人なら「全体的」とか「審美的」と表現するのだろうか。あるいは「荒唐無稽」と一刀両断するのだろう。しかしマヤ人は「utzil」と呼ぶ。無理に通訳するなら「非常に良いもの」というあたりになるようだ。個々の人間は決して utzil にはなれない。あるいは、utzil を提供することもできない。utzil というのは人間と人間との、あるいは人間世界と周辺環境との相互作用「状態」なのだから。「もの」ではなく「ある」なのだ。

相互作用の世界には「摩擦」がつきものである。摩擦に遭遇すると、ヒトは考えたり行動したりする。近代西欧的パラダイムでは、諦める、押し切る、再考する、という三つの選択肢があることになる。マヤ人の世界は簡単である。常に「再考」するのである。マヤ人の世界には「俺の勝ち」とか「あいつに負けた」ということはない。本質は utzil なのだ。外見を麗々しく飾ることは全く無意味である。ディベートとか凱旋式パレードは西欧的だ。

utzil は従って、「固有の美」あるいは「内在的価値」と通訳できるかもしれない。こうした世界では、悪を滅ぼす正義の味方というような考え方は生まれない。自分は絶対善であり、相手のみが悪であるというような宇宙はないのだ。人間は善と悪の均衡の上に生きているだけなのだ。運命論ではない。なぜなら、この均衡を司るものこそ人間だというのだから。もっとも、トウモロコシの子孫はすべて、虫に至るまでこの均衡の調整者である。

パパイヤとかニンニクというものがあるが、これらは伝統的マヤ社会では「はきだめ」の作物である。人間がゴミを捨てておいたところに、いつの間にか育っている。しかしこれらは回虫などの寄生虫に対する特効薬として働く。このコントに登場するのは人間・ゴミ・パパイヤ・回虫だが、人間とパパイヤは善で、ゴミと回虫は悪なのだろうか。こうした問いかけには意味がないのだ。この寸劇は utzil である、としか表現しようがないのだ。

しかし人間は、ゴミの捨て方とかパパイヤ・ニンニクの使い方に関与できる。すると utzil は「神」ばかりにではなく、人間にも内在するものになる。捨て方・使い方というのも重要なキーワードになってくる。長所ばかりを集めてきて使うと、短所はすべて捨て去ることになる。近代技術である。しかし、この捨てられた短所は存在を止めるわけではない。いつかどこかに集まってきて、それこそ手の付けようのない問題を引き起こすことさえある。

マヤの暦は13週と20日を基本周期としている。季節感とは無関係な暦だ。しかし260日と365日の周期は、52年目で再び一致する。古代マヤ時代の寿命かな、と思ったりもする。これで utzil なのだろう。
2004/10/23(Sat) 曇り


[ 天守閣 ]
U先生からです。

天守閣は天主閣であって、天主教(カソリック)が伝えたものであるという説があります。言われて見れば、そういう文字です・・・どうも、しかし、講談のこじつけのように思えて、広辞苑に尋ねて見ました。

  「天主」の文献上の初見は1550年。
  ザビエルの滞在  1549年〜1551年。

年号は一致します。アリバイ成立程度の根拠にはなります。

江戸時代も、当て字に変換したとはいえ、無神経に「天守閣」と言っていたのでしょうか。ハリツケには成らなかったものでしょうか。

(芥川龍之介著 松江印象記)
   橋梁に次いで、自分の心をとらえたものは千鳥城の天主閣であっ
   た。天主閣はその名の示すがごとく、天主教の渡来とともに、は
   るばる南蛮から輸入された西洋築城術の産物であるが、自分たち
   の祖先の驚くべき同化力は、ほとんど何人《なんぴと》もこれに
   対してエキゾティックな興味を感じえないまでに、その屋根と壁
   とをことごとく日本化し去ったのである。寺院の堂塔が王朝時代
   の建築を代表するように、封建時代を表象すべき建築物を求める
   としたら天主閣を除いて自分たちは何を見いだすことができるだ
   ろう。

以上のような問題提起を受けて、調べて整理してみました。するとどうも、天守閣は日本の戦争の歴史では徒花だったという可能性がありそうなのです。話は、センセイの疑問の主旨とは違う方向に行ってますが。

サラセン、マジャール、ノルマンの三大異民族の侵略の嵐にさらされていたヨーロッパでは、つい先日までの徘徊・侵略民族であったゲルマンが、一転して「専守」側になっていました。最初はパリですら、あのシテ島程度の城に籠もって、ノルマン人の食料が尽きるまで耐えていたようです。小領主が発生します。「モン何とか」の丘の上にシャトーや城壁を築きます。シャトーの方は防衛拠点ですが、武力集団が専門化すると彼らの住居になります。城壁は非常に際し、領民や家畜を収容・保護します。領地が拡大するに従って、城壁は外に向かって拡がります。定住領民も発生し都市が萌芽します。この城壁の防御機能を高める意味と、シャトーの最終籠城機能の確保という両面から、塔そして天守閣(ドンジョン)が発達してきます。

ドンジョンの目的はもう一つあって、領地の見張りです。物見の塔ですね。ですから、ドンジョンから見渡せる範囲(塔の地平)が実効支配地だったようです。地平にマジャールの騎馬隊やノルマンの船団が見えると、領民に警報を発して城壁内に収容します。現代語でも日本語の「都市」は中国では「城市」です。これはまさに大陸騎馬社会での定住原理なのです。しかし、城壁とドンジョンが防御上有効だったのは、大砲登場までだったようです。あの百年戦争を終わらせたのはジャンヌと大砲だったことになります。15世紀中葉ですね。

次いで大航海時代の幕開け。火縄銃とドンジョンのアイディアが相前後して日本に伝わったということは十分考えられます。結構早とちりも多かった信長のことですから、大喜びで飛びついたのかも知れません。

もちろん有効なこともありました。一つは鉄砲の登場で動員兵力が飛躍的に増えたことです。鉄砲は騎馬に対する大きな抑止力になりますから、これに守られて雑兵が活躍できるようになります。雑兵の活用を本当にやったのは秀吉でしょう。派手なチャンバラではなく、包囲攻城戦という土木工事で勝負をつけるというやり方は、彼が本格的に採用しています。大陸では常識だったこの攻城法ですが日本の風土では生まれにくいものです。野木大将あたりは、そのセンスが全くなかった方の典型です。もう一つは、山城が山を降り始めたことです。天守閣という防御能力優れた「指令塔」があれば、平城でも的確な防御戦指揮ができるようになります。領地支配や軍事活動にとっては、平城の方がはるかに便利です。

しかし一方、日本では大砲の時代も始まっていました。大阪城の例を見るまでもなく、巨大な天守閣も大砲の前には無力であることは続々と証明されした。元和偃武以降の天守閣には支配の象徴としての意味しかなくなっています。龍之介が「封建時代を表象すべき建築物」として「天主閣」を印象したとすれば、鋭いと言わなければなりません。

ザビエルあるいはサビエルが天守閣の呼称を伝えたとすれば、これは面白いのですが、同時代という以上の証拠はなさそうです。彼はバスクの山岳地帯の出身ですから、ドンジョンの有効性を信じていたのかもしれません。そうではなくて、大聖堂への転用を目論んでいたのだとしても愕きませんが。
2004/10/15(Fri) 晴れ


[ 蕎麦の乱 ]
蕎麦についての蘊蓄・蘊奥は、それこそ数え切れないほど語られている。しかし、今は故人となられたY先輩から伺ったこの話は、今のところ眼にも耳にもしたことがないので記しておく。残しておかないと、貴重な文化史論が誰にも伝わらないまま立ち消えてしまうかもしれない。

Y先輩は大阪は道修町(どしょうまち)の生まれである。大学までは関西で過ごした。現在進学校として有名な大○前(旧:女子)高校が戦後初めて男女共学に踏み切った時の第一期男子生徒だった。男子用の設備が何もなくて苦労した(?)ということを聞いた。朝礼も女子が前列だったそうである。これは人格に影響する。完璧な「うどん人間」を排出する風土・環境で育ったのだ。そうした不利な経歴にもかかわらず蕎麦にのめり込んできたのは、最初の職場(というより現場)が群馬県の山奥だったせいではないかと推察している。今となっては確かめようもないことではあるが・・・

納得のいく蕎麦に出会えなかったために蕎麦屋に転業したという人は多い。Y先輩の場合は自分で打つということで妥協していたようだ。ある時、仕事で同行することがあった。気がつくと、周囲の巧妙な指定券操作によって相席にされていた。ここで約2時間延々と、蕎麦の話を拝聴することになった。ミルク蕎麦の打ち方、なんていう話もあった。その中に「更科・薮起源論」とでもいうべきものがあって、これが妙に印象に残っている。関西人のバイアスがかかった見解だろうが、蕎麦文化の外から来て苦労を重ねつつ愛好家にまでなった人の意見である。マルコ・ポーロの話に耳を貸したフビライ程度の度量は示そうと思う。以下、その概要。

日本の割烹の最高位は懐石だということ、これがこの論の大前提になっている。まあ、これに反論するのはなかなか難しい。反論できずにグズグズしていると話は進んでしまうことになっている。次いで、(正式の)懐石では蕎麦は供されないという現実を突きつけてくる。一方「素麺」というものがある。彼らは末席とはいえ、この貴人ばかりの席への昇殿を許されている。このことが、饂飩と蕎麦の出自・身分の差を如実に物語るのだそうである。ここで蕎麦はどうなったか。そう、平氏のごとく殿上人を目指すグループと、源氏のごとく独立政権を目指すグループとに大きく分裂してしまったのである。

いつの日にか栄光の会席に侍りたい。こうした願望を抱く蕎麦の一群は、素麺への道を目指した。色あくまで白く、ほっそりと、これすなわち「更科蕎麦」派の発祥である。敦盛が薄化粧をしていたという逸話は、更科蕎麦たちを励ましたに違いない。化粧が厚くなってくると「御膳蕎麦」と呼ばれるようになる。駿河の守護大名のようなものだろうか。こうした一派から取り残された蕎麦たち、これが「薮蕎麦」である。薮蕎麦の路線は大衆路線である。都には決別したという意味で「田舎蕎麦」とまで自称した。色は黒く、荒々しいが、それだけに活力に満ちている。面白いことに蛋白質もビタミン類も豊富らしい。

Y先輩の話は店名の正閏論にまで及んだ。いやしくも「更科」や「薮」を名乗るのであれば、間違った蕎麦を出してはならない、というものである。たまたま職場の近所に薮伊豆があったので、「あそこのはそんなに黒くないですよ」と申し上げた。すると即座に、「君らの行っとるのあれは支店や、本店はちゃんとしたモンを出す」と一蹴されてしまった。相当ウラを取っている史論だった・・・こんな状況で約2時間の講義を受けたのだが、今は昔、懐かしく思い出されたことである。

では、この蕎麦の乱とでも言うべき大分裂の結果はどうなったのか。私見ではあるが、いずれも勝者にはなれなかった。現在、それほど公式ではない懐石では蕎麦を見かけることもあるが、「茶蕎麦」が圧倒的に多い。茶蕎麦の起源も考えなくてはならない。
2004/10/10(Sun) 曇り


[ 山行かば ]
昨日は旭岳というところに行ってきました。標高2,290mとか。行く先々、耳タコで聞かされました。もちろん、蒲柳の質のテバとしてはロープウェイの終点が最高到達点です。終点の駅「姿見」1,600mで、待機することとします。そこから先は、元気な連中にお任せしました。ハイマツとかエキノコックスとかには、全く関心ありません。この駅名は多分、旭岳のお姿を見る意味かと拝察するのですが、観光客はナルシズムの姿見とばかり、山も自然も押しのけてド・アップの被写体を決め込んでおりました。テバはこの駅で、少しでも暖かい場所を探してウロウロしてました。

トイレがフルスペックの水洗式だったのにはショックを受けました。この大量の排水はどこに行くのでしょう。今ははや、環境愛好家が環境を破壊する時代なのです。ちなみに、ユングフラウのトイレでは全然水を使っていなかったのでした。

降りのカーゴを待つ人々の大半が戦闘服の自衛官だったのには驚きました。もちろん、かの旭川連隊の猛者たちです。一瞬、この山も戦後復興支援の対象地になったのか、と、愕然としました。よーっく見ると、北国にしては妙にディープな陽焼けをした隊員もいました。話は変わりますが日清戦争の少し前まで、内地には近衛を含む6師団があったのに、北海道は屯田兵制でありました。これは開拓使長官もやった黒田清隆の強い意見が影響したと言います。黒田はアメリカを見て、アメリカのような北海道を造ろうと思ったようです。そのアメリカも今ははや。

北海道開拓使の廃止と陸軍大学校の創設は同時期だったようです。北国の港から中東への輸送船を見送る日の丸の小旗、その間に100余の星霜が過ぎました。北海道の都会は、すべて、小東京になってしまいました。

それはさておき。昨日の出動は、81才の老女の捜索が目的だったということを夕方のニュースで知りました。お気の毒に、亡くなられたそうです。標高2,000m近い山の冷え込みは凄いですからね。一昨日の山行で、5合目あたりで気分が悪くなり下山したまま行方不明になったそうです。ほぼ同じ標高で発見されたようです。だれも気温の低さとか酸素の薄さ、それが体調に与える影響を気にしてあげなかったようです。単独でグループを離れたのですね。山行く人はやはり個人的サバイバルなんですね。

 富士山に登って山の高さを知れ
 大雪山に登って山の大きさを知れ

ファイトォー・一発ですか。どちらも知りたくありません。遠くから見てもわかりますけど。
2004/10/06(Wed) 晴れ

My Diary Version 1.21
[ 管理者:テバ 著作:じゃわ 画像:牛飼い ]