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☆★☆- ホンの幕間 -☆★☆

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[ 山村から ]
山村の宿屋の夕食です。土鍋があり大皿に豆腐、ネギ、白菜、そうしてなぜか多種・大量のキノコが満載です。これがメインディッシュだということは誰にも判りましたが、鍋には火も入れずに待っていました。魚とかイノシシとか鶏とかの、何らかの「肉気」が出てくると思うわけです、普通。で、宿のおばさんが「あら、召し上がらないんですか?」ときたので、これが具材の全てだと知ったわけです。これこそ初体験・幻の「キノコ鍋」だったのです。

本当に、期待はおろか予測もしていなかったのですが、季節はちょうどキノコのハイ・シーズンでした。いやはや愕きました。鍋以外もキノコ・キノコ・キノコですからね。翌朝の食事にもキノコがあったようです。「ようです」というのは、このごろセミ西式健康法に凝ってまして、パスしたから実見しなかったのです。これは幸いでした。昼食が天ザルとキノコの炊き込みご飯でした。もちろん天麩羅はすべてキノコです。結局15種類くらいは出てきたようです。

キノコ大好き人間にとっては、狂喜乱舞の極楽です。苦手人間には・・・です。

人口千人余の村です。一昨年初めて訪問しました。今回は四度目になります。前回までは日帰りばかりでした。一度じっくりとお話を伺ったりしたくて、泊まりがけの機会を狙っておりました。やっと実現したのがキノコの季節だったというわけです。キノコはさておき、やはり収穫はありました。「マス」に慣らされた都会的発想がどれほど無機的で危険なものかを、思い知らされました。千人の運命を運ぶ村でさえ、多すぎるほどの課題を抱えています。むしろ命懸けと言えます。

めでたく1億2,800万人になったこの国ですが、千人単位の「ムラ」に分割すると12万8千になります(計算、合ってるかな?)。これが、顔が見える範囲の集団の数です。これを三千余の市町村、あるいはどこかの省が目指しているような、千程度の自治体でどうしようというのでしょうか。平均10万人のマスを対象とする統治の発想とは? 新・後醍醐帝の平成の中興は何を目指しているのでしょうか。律令制の復活? ルビコン川を逆に渡ろうとしているのではないでしょうか。

自分自身の来し方を考えると、それほど偉そうなことを言える立場ではありません。何せ、和製ベビーブーマーとして、「くらげなすただよえる」生き方の先陣を切ってきたのですからね。世界→日本→自分、状況という波のサーファーに過ぎなかったわけです。それならば、なおのことです。この山村を定点とさせていただいて、この国を見る視点を築くための勉強させて貰おうと思った次第です。リピーター志願の動機です。これからもご迷惑をおかけすることになりそうです。

今回は、かなり以前からお願いしていた甲斐もあって、衛生管理の厳しい養魚場も見せて頂きました。アマゴなどは、孵化してから放流するまで2年の歳月を飼養するようです。夕食のアマゴの塩焼きが大変に神々しく思えたことです。ヒノキ・スギの間伐についても教えて頂きました。一泊二日の間伐ボランティアは応募殺到だということです。説明を聞いているうちに、一度応募してみたくなりました。一ヶ月ぐらいは禁酒禁煙の助走が必要でしょうけれどね。

 そばの花山傾けて白かりき (青邨)

蕎麦の花が雪のようでした。
2004/09/18(Sat) 晴れ


[ ひとつの指輪は ]
 
 One ring to rule them all. (ひとつの指輪は全てを支配する)

出版社の編集子ほど阿漕な人種はいません。やっと初校が終わり、心穏やかな週末を送れたと思っていた矢先でした。そろそろ遅い夏休みでも取ろうかな、などと考えて出勤した月曜日の昼ごろ、厚さ10cmほどの重い封筒がドンと届きました。「再校」という巨大なスタンプが打たれていました。蜘蛛の糸が切れた瞬間のカンダタの気持ちが解ったのです。それにしてもヒドい話です。自分だけしっかり夏休みを取っておきながら。

泣く泣く作業再開です。まあ、先週の終わり頃までやっていたことですから、それほど違和感はありません。この道三ヶ月、ガレー船漕ぎのベテラン奴隷といったところです。しかも今回は、一章単位で刻むような作業ではなく、全体の三分の二ぐらいを一挙にやれるので、ストレスもあまりなく、結構快適です。こういうのって「奴隷の小春日和」とでも言うんでしょうね。小市民的至福とも。あと5cmほどは来る予定ですけど。

木曜日の夕方ぐらいです。重大な心境の変化が現れてきたのを感じだしました。なんと、過去三ヶ月間のオブセッションの根源であったこの本が、「愛しいもの」に思えてきたのです。そう、ゴラムやビルボ・バギンズをして「愛しいひと」と呼ばせた、あの魔性の指輪になってきたのでした。指輪物語は大昔、翻訳を文庫本で読んだだけです。そこで原語は何だろう、というギモンに突き当たります。暇だね。

http://miyako.cool.ne.jp/LOTR/think/mirror/mistranslation_fotr.txt

ゴラムは、"My preciousss!"と叫んでいたのでした。"s"が三つもあるあたり、この指輪が持つ魔性の凄味を感じさせます。ビルボはさすがに"my precious"と呼びますが、半生を共にしたこの指輪を甥っ子のフロドに譲る際には、すさまじい葛藤を見せています。しかし、映画の字幕の内容に抗議するグループというものがあったとは知りませんでした。そこまで語学力があるなら、字幕なんか相手にしなくてもよいのに、とも思います。羨ましいかぎりです。

でも確かに、これを字幕で「私の愛しい指輪」とやられたのではニュアンスもなにもありません。トールキンが時代背景に選んだのは中世世界です。そこでは人間の感情は未だ荒削りなものでありました。その代償として、感情表現の抽象化・象徴化には多大なエネルギーが割かれていたのです。"my precious"とは、騎士が貴婦人に呼びかける言葉だったのです。貴婦人とはノートルダームであり、それは聖母マリアそのものです。「愛しいひと」という文庫版の方こそ正解なのです。

というわけで、この緑の表紙の本は「愛しいひと」になりました。トイレ学の本ですけどね。
2004/09/11(Sat) 曇り


[ DESAR(で・猿) ]
環境問題というものは、天文学やナノテクノロジーなどとは明らかに異質な、あえて言えばウサンクサイものである。結論からいうと、環境問題は外部に絶対的な検証対象を持たないのである。Uセンセイの惑星物理学だって、その外部に理論体系とは独立な現象とか物理量を設定し、これらを観測・検証しながら進めてきたに違いない。内容は理解できないが、そうでなかったら単なるSFである。中性子星上のミクロ生物の文明だって描けてしまう。

環境問題というものは、一応、科学や技術の問題であると見られている。しかし、こんないい加減な分野が、これほどの扱いを受けたことは、かつてない。似たような試みはあった。バブルなころだが「政治工学」というものがあった。湘南出身の政治家がパーティー資金のためにやるなら冗談で済むが、これで研究所を設立したり学生募集をやった大学まである。もっとも日本だけではないらしいから、それほど『恥』とするにはあたらないのかもしれない。

環境問題が外部に検証対象を設定できないのは、「環境」を対象としているからだということが、最近になって判明した。突き詰めていくと、環境というものは外部を持ちえないのである。外部がないのだから、外部の観測対象はない(QED)。これは宗教とか信仰とかの問題によく似ている。「我はアルファであり、オメガである」という命題の検証が極めて困難なことにそっくりなのだ。環境みたいもの、科学や技術では「扱こうておりまへんデ」と宣言されそうだ。

ここで二つの方法論が登場する。一つは、環境問題そのものを外部化してしまう方法である。一体、どうすればそんなことができるのか(民放調)。読者だけに教えます。その原理は「ヒトはサルである」というところにある。ヒトとして考えたことを、サルの目と頭でもう一度観察するのだ。ヒトだけが天然自然の理や物理法則に従っているのではない。プランクトンだってサルだって同様なのだ。都会のネズミの生活を、田舎のネズミの視点から評価すると言ってもよい。

第二の方法は、ある先生の受け売りなのだが、コミュニケーション→イニシアティヴ→シナリオ、というドライブの手順である。こうなるとひょっとしたら、科学ではないのかも知れない。単なる技術なのかも知れない。ハル・ノート→キル・ザ・ジャップ→マンハッタン、の悪夢まで連想される。しかし、第一の方法と併用するならそうした誤診誤療が避けられるかな、というのがかすかな希望である。何しろ問題は差し迫っているのだから。

ブッシュの息子から「古いヨーロッパ」と蔑まれた地域から面白い本が出た。EUのサマー・スクールのテキストブックで、DESARという。「デサール」と訓むらしい。一種の奇書である。かなりマニアックな内容がちりばめられている。この通読・監訳をぶっ通しでやっていた。何しろ夜にしか時間がとれない。CEOも最初は、そんなことのために給料を払っているんじゃないよ、という白い目であったが、最近は、まあ病気なんだから仕方がないか、となってきた。

毎日夜中(過ぎ)に帰宅しても、その日作業した内容の印象がグルグル駆けめぐる。アリストテレスはゴルギアスに言う。弁論術は技術ではない。ゲッ、これこそ環境問題の究極のトートロジーではないか、・・・セネガルの某都市の衛生状態の改善問題、・・・トイレの設置におけるジェンダー問題、・・・ヒーリングとサニテーションは対立概念か、等々、しかも作業は果てしない。来週は送別会があるから、その日は使えないし・・・戦線崩壊司令官状態の日々であった。

やっと今週一段落した。いつごろから始めたのか記憶もさだかでなくなっていたので、一番古いファイルのプロパを覗いたら6月9日になっていた。梅雨と盛夏が過ぎていたのだった。原書の方はもう2年以上も前に出されているので焦っていたのだが、実力が伴わずこんなに掛かってしまった。しかしこの週末の気分は格別である。来週はどこまでやれるだろう、・・・なんていう心配から久しぶりに解放された。冬の跫音が聞こえる前に出版、これが当面の目標である。

後世の評価はいかようもあれ。錬金術を生み出した欧州のミステリアスな風土は健在のようです。
2004/09/04(Sat) 曇り

My Diary Version 1.21
[ 管理者:テバ 著作:じゃわ 画像:牛飼い ]