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☆★☆- ホンの幕間 -☆★☆

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[ 北の都から ]
北都のF先生からメールが来ました。先生は、この春教授に昇任されたばかりの新進気鋭の学者です。もちろんテバより遙かに若い方です。6月ごろから、ある仕事で共同作業状態にあります。テバの粗目の篩いで前処理した玉石混淆的素材を、先生の緻密な頭脳で限外濾過していただいています。

テバはテバなりに、本来業務(雑用とも)があります。昼間は中断ばかりで全然進みません。5時頃から集中できる状況になるのですが、あら悲し、エアコンが6時に切られてしまいます。先生のおられる北都の気候をうらやみつつ、発汗千斗残業です。全てにおいてあちらが有利だ、などと恨んでました。

ところがメールを一読して愕然としました。「木曜日で講義も一段落しました。積み残した仕事をやらなければと思いつつも、現在は呆然としております」とあります。そういえば、先生の方は「教授」になってしまわれていたのでした。日本の教授の雑用の多さは、世界に冠たるものがあります。欧米の比ではありません。

悲惨な境遇です。ようし、今だ。今のうちに出来の悪いヤツをどんどん放り込んでおこう。そうして更に呆然とさせてしまおう。そう思うテバでした。
2004/07/31(Sat) 晴れ


[ 当世散髪事情 ]
わずかの距離だが駅デパまで歩くだけで、舌が出るような暑さである。そういえば3Fに散髪屋が開店したな、本屋さんの隣でもあるし、混み具合などを視察してみようかということになる。前を通りかかると、店内から男女店員各一名がスッと出てくる。いきなり「カットだけですよ」とくる。思わず「あ、うっ、それで結構ですが」と答えてしまう。キャッチやマルチに弱いタイプである。すいすいと請じ入れられ、でっかいタッチ式のディスプレイに名前を入力させられる。

「少々お待ち頂くかも知れません」と待合いの椅子をすすめられる。腰を下ろそうとした途端、名前を呼ばれる。奥へどうぞということ。さっきのニイさんが案内し、たちまち散髪を始める。腰のベルトに全装備を下げている。あれよあれよで10分ちょい、はいお終いということ。偵察でもしてみようかなと思ってから、たった15分であった。凄いですね。余計な会話も一切なし。帰りにくれたカードには「株式会社○○」とあるのみ。おなじみのバーバーとかヘアサロンの文字は一切なし。

自慢じゃないけどこの歳まで、株式会社に散髪させた経験はない。ついに自分のアタマも、株式会社を取引相手とするまでに出世したわけだ。ついさっきまで、暑いな、散髪いつにしようかな、三連休だし、やっぱり行きつけのとこに予約入れようかな、なんて迷っていたのが嘘のよう。値段が安いのも驚きだ。駅ビルの一角を広々と使っていながら、安い! いつものところの料金の半分以下である。二回行ってもランチ代が残るくらいに安い。空いているのは客の回転の速さだろう。薄頭多売。

今まで、安物の頭に金をかけすぎていたのかな・・・と思ってしまう。いつものヘアサロンの近所を歩くときは、ちょっぴり気が引けました。
2004/07/17(Sat) 晴れ


[ 陰陽の掌理 ]
前漢(西漢)の時代、ようやく呂太后の尻から独立した文帝が、ある時宰相に尋ねたという。天下の罪人の数とか国家の税収の額のことである。宰相は「知らん」と答えたという。それは法務大臣や財務大臣の仕事だから、あいつらに訊けよということである。温厚な文帝も多少アタマにきて、じゃあお前の仕事は何だ、と問う。するとこの宰相は平然と、「役人どもを監督することです」と答えたという。

総理大臣の仕事は、天子を補佐し、陰陽を掌理し、四時を順え、万物の生成発展を扶け・・・・、と、私は何かと忙しいのだよ、と説明したらしい。文帝はむしろ感動して「善哉」と言ったらしいが、これでは呉楚七国の乱の遠因にもなろうというものだ。この答弁の中で、もっともふるっているのが陰陽の掌理である。街中で人が死ぬような乱闘があっても知らぬ顔をし、暑さに舌を出す牛に細心の心配をするようなことらしい。

日本の男性の寿命がアイスランドに追い抜かれ、世界第二位になったらしい。女性の方々は相変わらずで、おめでとうございます。最大の原因は交通事故死の四倍という自殺者数にあるという。弊国の宰相の感覚は、どうも2100年以上前の中華帝国の宰相レベルらしい。年金も寿命も厚労大臣の仕事さ。僕は知らない。僕の仕事は役人どもを監督することで、デフレもリストラも担当大臣の仕事じゃないか。

さすが、大日本テーコク・ソーリ大臣ではある。今や、この人に質問をする皇帝もいない。
2004/07/16(Fri) 晴れ


[ 分際 ]
本当に公(おおやけ)の場で聞くのは久しぶりの言葉だ。ひょっとして死語になってしまっていたのではないかと心配していたが、どっこい健在だった。

 「無礼なことを言うな。分を弁えなきゃいかんよ。たかが選手が」

司馬先生がどこかに書いておられたと思い、引っかき回していたら出てきました。「分際」論でした。

『分際とは、封建のなかで、身分ごとに(こまかく分ければクラスの数が千も二千もあるはずである)互いに住みわけてゆくための倫理的心構えもしくはふるまいのことで、封建制を構成するための重要な倫理要素だと私は思っている』

福翁は「封建制度は親の敵でござる」とし、新しい時代を担う後進を育成すべく三田塾を開かれた。しかし、冒頭の「無礼な」発言をした人は帝國大學の出身らしく、封建制度には何の怨恨もないどころか、現在もその伝統的価値観を堅持しておられるフシさえある。再び大司馬を引用すると、

『幕藩組織の原理は身分差によって成立しており、縦の序列が、気が遠くなるほど多種類の格差づけによってできあがっている。いかなる役職でも、厳密な意味での同列同級はありえないというほどにこの格差は精密なもので、たまたま存在したとしても、その同列同級に年齢という要素を入れて、上下化している』

『ひとびとは相手が自分より上か下かを即座に判断し、相手が下ならば自分の体まで大きく見せ、上ならば体を小さくして卑屈になる・・・御家中の暮らしというのは上級者にへつらい、下級者に威張るということで成り立っている』

こんな時代であったのなら、その終焉を見届けた諭吉先生が、未来への夢を託してあのように述べられるのは当然だ。ところで、この身分差がどのぐらい細かいものであったのかを推測してみたい。残念ながら資料の時代はばらばらなのだが。

俗に位階勲等と言われるが、これだけでも精緻なものである。

 位  : 正一位〜少初位下 : 20(養老令より)
 階  : 第1階〜第7階  :  7(昭和5年宮中席次より)
 勲等 : 大勲位〜勲八等  : 19(平成15年10月まで)

位と階はおおむね対応しており、従ってより精細な位で区別する。すると、国家から認知されている人々だけでも、

 20 × 19 = 380

になった。明治の完成した体系では、これに華族・士族・・・いわゆる族別、爵位、公職位、薩長土肥が加わる。「千も二千も」どころではない。軽く万を超えてしまう。たとえば「○○県士族従三位伯爵勲三等日本海海戦勲功者海軍(現役)大将海軍大臣・何のタレベエ」となる。ちなみにこの人の場合は、大臣職が決め手になり宮中席次は第1階(トップ)ということになる。もちろん総理大臣、陸軍大臣の下である。以前、「従三位下会津中将京都守護職松平肥後守容保」程度で感動していたのが幼稚だったように思われることだ。

ただ、徳川・明治・大正・昭和前半期には、暗黙のうちに門地門閥原理があった。一人の人間があったとして、その生まれついての出発点が決まっていれば、最終的な到達点にも限界があった。例えばどんなに帝國大學での成績が優秀でも、家柄が悪いと採用してくれない官署もあったという。ところが大正15年に生まれた人が世の中に出たときあたりから、「そのタガ」だけが外れていた。上に媚び、下に威張る「キー(KI)システム」は温存したままで。福沢塾長の夢は「胡蝶の夢」と砕け散る。

他の例として、もっと判りやすい山下清の世界から眺めてみよう。戦前の陸軍である。代表的な「兵科」には大元帥から二等兵まで約20の階級があった。同じ階級でも叩き上げ、幼年学校・陸士・陸大別、年次別、族別、従軍経歴、勲功別とかを加えていくと、もの凄いことになる。軍隊では「即座に判断」するための便法として、階級章、褒章、勲章などを身にまとわせる羽目になった。そうでもしないと「礼式違反者」ばかりになってしまい、欠礼者の処分に追われ、軍として機能しなくなってしまう。

選手会会長というものを無理矢理あてはめると、将来は将官(監督)になる人もいるだろうから、まあ佐官級だろうか。組合委員長だから、あえて言えば連隊付参謀(中佐)かな。実力があれば連隊長(コーチ)つまり大佐になれるのだろう。しかし、「無礼な」発言おじさんは大将級なのだから「分」を弁えないと言われても仕方がない。本人は元帥級と思っておられる可能性もあるし、「たかが選手が」発言から拝察すると、選手会会長もせいぜい熟練工、つまり上等兵程度と考えているふしがある。

ついでながら、本人のいないところで罵詈雑言を言うことは一種の蔭口である。電気瓦版のおかげで、純粋な蔭口になり損なう時代ではあるようだが、この蔭口というものは大分類上「意地悪」に入るらしく、大変に有効な封建的倫理強制テロリズムの武器として機能するらしい。再び、司馬公より。

『(いやなやつだ)と、松本良甫は多紀楽真院のことをおもったが、しかし蔭口を耳にした以上、多紀の屋敷を訪ね、頸の骨が折れるまで拝跪して謝らなければならない』

楽真院(楽春院?)は時代考察の間違いだという説もあるが、そんなことは論の本質には無関係だと思うテバです。ところで、誰のことなのか判らないが、次のようにあまりにも酷似した記述があったので、諸兄諸姉の参考のため引用する。

『(彼の)人心掌握術の一つは、本人のいないところで、多人数を前にして声高になじることだ。それがどのようなルートで本人に伝わり、そして当人がそれにどう反応するか観察し、それによって、敵か味方かより分ける。公然と非難された当人は、速やかに陳謝に訪れ、他人の目を憚ることなく氏に平身低頭し、時には罵倒されることも厭わない。彼の軍門に下れば、社内人事でも、退職後の再就職でも優遇される。しかし、その反面、絶対服従を強いられ、反論は許されない』

かくて遼大兄が『日本の水田耕作の農村という形態から出た』と喝破された『この不思議な精神』は、連綿と持続する。
2004/07/10(Sat) 晴れ


[ 神木伝説 ]
またしてもモロンダバのバオバブ倒壊が報道されていた。何回目だろう。樹齢500〜800歳の「聖・バオバブ」が根腐れをおこしたという話だ。現地の長老が「大変なことだ。どうしてこんなことに」と語っている横では田植えをしている。例の牛車のおじさんがさりげなく通り過ぎる。この人は観光的映像には、不可欠なアイテムになっているようだ。ギャラも良さそうだ。

半乾燥地帯の象徴みたいな植物の周りを水田で囲んで水浸しにすれば、根腐れするに決まっている。倒壊した跡の穴は水溜まり状態だ。銀シャリを選ぶか、バオバブを選ぶかの問題にすぎない。もっとも、銀シャリを頂きながら取材協力費もせしめるという第三の道もあったわけだ。このごろは名前も聞かなくなった漫画家がレポーターをやっていた。必然性のない人選。

彼曰く、「自分の意志で倒れた」、「この木には意志と知性がある」、「神秘だ」とか。怪奇ヘビ女や「まことちゃん」レベルの解説だ。日没後は、わざわざ、ステロタイプな腰巻き姿に槍を持ったおじさんと視察に赴く。マ共和国の名誉のために言っておくと、現在、こんな扮装の人はどこにもいない。みんな日本人と同じようにTシャツを着ている。しかも仏語のロゴが入っている。

コールマンのランタンを持ち歩きながら、撮影用の強烈なライトを浴びている。文化人というものは、放送局に頼まれればどんな出鱈目でもやるのだろうか。何でも言うのだろうか。次のシーンは一転して、塩の大地に根付く若いバオバブの大群落だった。そう、この大地こそ彼らの故郷なのだ。ここでこそ生態バランスが維持されているのだ。モロンダバはもう駄目。

最後の最後に馬鹿をやっていた。若いバオバブの樹皮をこすり落として、緑の「真皮」部分を見せていた。そんなことをする意図すら判らない。バオバブやサボテンは、幹の部分で光合成をしている。あの貧弱な「葉っぱ」で巨体を維持できるわけがない。しかし苛烈な紫外線は葉緑体を破壊しかねない。そこで茶色の樹皮で保護している。いわばサングラスなのだ。

この部分を破壊するというのは、虐待であり極刑なのだ。まぶたを切り取るに等しい。何も学ばないマスコミが、視聴率のために世界を破壊して歩いている。視聴者は感動する。
2004/07/03(Sat) 晴れ

My Diary Version 1.21
[ 管理者:テバ 著作:じゃわ 画像:牛飼い ]