☆★☆- ホンの幕間 -☆★☆

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[ 曰、苦。 ]
そう、9月も終わる。子規がなくなってから、100年が過ぎた(昨年が子規忌100年祭だったらしい)。35歳を目前の夭折であったようだ。20世紀に来たるべきものに、限りない関心と憧れを持ちながら、決してそれを見ることなく終わった生涯だった。ある意味では不幸である。しかし、ある意味では幸福であった、と言えないこともないような気もする。

絶筆となった「病牀六尺」には、以前から気になっている記述があった。第21回である。この前後の画論などを読んでいても、この時期、子規の「頭」は、かなりしっかりしていたようだ。

           二十一

○余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。
○因みに問ふ。狗子に仏性ありや。曰、苦。 (チナミニトフ。クシニブッショウアリヤ。イワク、ク。)
 また問ふ。祖師西来の意は奈何。曰、苦。
 また問ふ。・・・・・・・・・。曰、苦。
                         (六月二日)

ここの前段ゆえに、子規は、後世から絶賛されることが多いようだ。褒める方々の立場も理解することができる。「武士道は死ぬることと・・・」という古い時代の精神を、新時代にふさわしい「生命礼賛」に転換した、つまり、ヒューマニズムの旗手と見ているのだろう。では、そうすると、唐突に置かれた感もする、後段の公案はどう理解するのか。これが解らない。

この公案の原典はこうである。

○趙州和尚、因僧問、狗子還有仏性也無。州云、無。
(因みに僧問ふ、狗子に還って仏性有りや無しや。州曰く、無。)

犬の仏性の有無についての議論を通じて、(人の)仏性の本質を論じているのであって、生の苦楽について論じているのではない。祖師(達磨)西来の答えは、原典では「曰、脚下照顧。」であり、やはり苦楽論ではない。ましてや、とどのつまりの一切問とも解すべき「・・・」への(子規居士の)答えも、一切「曰、苦。」になっている。このアフォリズムは何だろう。

結局、この時期、子規は「絶対苦」の向こうに「絶対楽」を垣間見ていたのではないだろうか。結核が進行し、脊椎カリエスに苦しみながら、諸外国、日本国、政府、軍事、経済、俳句、短歌、演劇、歌舞伎、能楽、狂言、東西の絵画、子女教育、庶民、泥棒のこと・・・、全世界の文明・文化を心配してやまない病牀六尺の宇宙、何よりもそれを支えた頭脳、これこそが子規の凄味と言えよう。

20世紀の経営哲学のひとつであり、しかも、ほぼ失敗であったと評価されつつある軟弱な人道主義、こんなものと混同されるのは迷惑千万に違いない。
2002/09/29(Sun) 晴れ


[ 見当識クライシス ]
自販機にコインを入れ、例によって、最敬礼を強いられつつ商品を取り出しにかかる。当然、次は身を起こす。このとき、あなたの頭上に他人の手が伸びていたら、当然、ぶつかる。そして、あなたは驚く。しかし、この、手を伸ばしていた「他人」がびっくりしたら、あなたは、さらに輪を掛けてビックリするはずだ。自販機の前にかがんでいる中年がいても、いなくても、自分の都合だけで手を伸ばし、コインを入れようとする。次に何が起こるかを、全然予測していないのだ。これを「見当識に障害がある」という。極端な場合は痴呆に分類され、治療が必要になる。

このごろ、これに類したことが妙に多くなった。駅などで人の流れに無関係な方向に突如歩き出すヒト、狭い小路からいきなり飛び出してくる自転車、他人の家の門前や、通路の出入り口に堂々と放置してあるバイク・・・これらを、ある一定年齢より若い層がやっているというのが、現今の特徴だ。元来、見当識失墜症というのは、高齢者や継続的にストレスに曝された人などに見られたものだが、若年化が進行している。原因は、月並みだが、環境変化と訓練不足だろう。見当識を回復する治療法には、日記をつけたりする、というのもあるようだ。これは訓練の領域の例。

成長環境の変化の影響は、最も大きい。自然に触れないまま成長した世代が、すでに人口の過半数を占めるという。自然はランダムだ。思いがけないことの連続だ。突然虫が出てきて刺すし、水溜まりに足を突っ込むこともあれば、野中で傘もなく驟雨に出会う。整備された大都市やTVゲームの世界では、この意外性・蓋然性が最小限に抑えられている。管理瑕疵や製造物責任が問われる世界では、どうしてもこうなる。結果、センス・オブ・ノーワンダーな人間が大量生産される。このような人間は、予測したり想像したりはしない。他人の頭上であろうと平気で手を伸ばす。

マクアイは、見当識の維持・回復に役立つか?
それとも、こんな記事を書くのは既に・・・?
2002/09/28(Sat) 雨


[ フール(決定版) ]
え〜かげんな、聞き書き風「ゆーふるやー」研究も、これ以上続けると、あちこちから非難の秋風が立ちそうな今日このごろです。で、これこそという決定版はないものか、と胸痛め心悩ます日々が続いていたのですが、ふと思い立ちました。困ったときの大百科頼み、というわけで捜してみました。正しい項目名が分からないのが唯一の難でしたが、粒々辛苦、やっと見つけました。手がかりの項目は「フール」でありました。というよりは、写真が載っていたので発見できたのです(楽ガキ参照)。民俗学の極致でありました。解説して曰く、

「豚の飼育小屋を兼ねた便所。フーリャ、ウヮーフールともよばれた。沖縄の民家施設の特質的なものといわれたが、戦後はみられない。中国から伝来したといわれる。石積みの区画がなされ、屋根は石造アーチ形・茅葺き・瓦葺きがあった。床は石敷きで、前方にトゥーシヌミー(東司の穴)があり、内側に向かって勾配がつく。東司の前方に一枚石の目隠し壁があり、このなかに豚を数頭飼う。東司から用を足すと豚が・・・。1916、7年(大正5、6)ごろ、都市衛生上遺憾な点があるとして、時の警察署長の命令により区長立会いのもとで各家庭のフールのトゥーシヌミーを潰し、新規にフールを造ることを禁止した。フールのわきに新たに設けられた汲取式便所は、ヤーフール(屋根つき便所)とよばれる。→フール神」

そうだったんです。実は、ひとつの「槽」だったんです。それが大正時代に、無理矢理切り離されたんですね。ここからはテバの蘊蓄ですが、住居の清潔を保つ行政は、江戸時代から昭和の初めまで、ずっと警察担当に分類されていました。もちろん、江戸時代なら、お奉行様登場ということになります。1900年には警察所管「汚物掃除法」なんていうのまで立法されています。で、大正中期に社会変動が起こります。農家が、都市の廃棄物を農業に再利用することを、面倒くさがりだしたのです。モダン大正の七不思議のひとつでしょうか。

この辺りから現在に至るまで、廃棄物の処理の歴史は一本道でした。なんでもかんでも下水道へ、紐さえ引っ張れば、あ〜ら不思議、キタないものは消えてなくなる、といった社会を築いてきたのでした。やっぱり20世紀は、ある意味で、不思議の世紀だったんですね。最近になって、ゼロエミッションだの循環型社会だのが、模索され出しました。「模索」というよりは「再発見」じゃあないか、というような気がしないでもないのですが・・・関連事項の「フール神」の方もなかなか面白かったので、サワリだけ紹介しておきましょね。

「−がみ:便所の神。首里・那覇あたりでかつて屋敷のなかでもっとも権威あるものとして信じられていた神である。・・・夜遅く外から帰ったばあいはすぐには家の中に入らず、豚小屋(便所)に立ち寄り、寝ている豚を起こしてその声をきいてから部屋へ入ると、悪い魔物を追いはらうことができると信じられていた。夜中に用便に立つ子どもにも、フールの神は一番強くて偉いということをいってきかせるのがふつうであった。・・・」

「豚を起こし」とか、「夜中に子どもが」あたりは、柳田先生も大いによろこんでくれそうですね。
2002/09/27(Fri) 雨


[ アステロイド「ちょっと恥ずかしい」 ]
小松左京さん(71)が、小惑星に「ちょっと恥ずかしい」という名を付けたらしい(by Asahi.com)。さすがは名作「日本アパッチ族」のライターである。何といっても意表を衝いたネーミングが楽しい。小松さんとは、10年ほど前、とあるパネルディスカッションでご一緒したことがある。もちろん小松さんはコーディネータ役だったのだが、出演前の楽屋での雑談が楽しかったという記憶がある。もうそのころは、新聞のエッセイでお目にかかる程度で、あまりまとまった作品は発表しておられなかったようだが、エスプリ横溢のお話は、それこそ要記録モノであったような気がする。

地球から5億キロも離れた17等星らしく、肉眼では見えないらしいが、ちょっと懐かしい話だった。
2002/09/26(Thr) 晴れ


[ 12回ウラ ]
得点は2−2である。Gのリーグ優勝は、Yの敗北ですでに決定していた。あとは、この甲子園で、山のように詰めかけたTファンの前で、H@G監督の胴上げの儀式を済ませるのみであった。ここでTの攻撃、1アウト、1・2塁、カウントは1−2となった。どんなアホでも、引き分けに持ち込むしかないことは、分かっていたはずである。ピッチャーも、すでに使い果たしたており、イナオ様のような方は、もう、いない。凡ピーのみである。

野球に冥いテバでもわかる。ギリギリのインハイを投げ、ともかくも打たせる。うまくいけばダブルプレー、悪くても2アウトにはなる。しかし連合艦隊司令長官たるH@G監督は、夢見つつシビれているようだ。第一戦艦隊司令官たるSピッチングコーチからも、何の指示もない。ともかくも、眼前のバッターを討ち取れ、という願望のみであったようだ。結果は、全国数千万のプロ野球ファンの見るとおり、パスボールでのTのさよなら勝ちであった。

一瞬、凍りついてしまった。すると、今夜のヒーローインタビューは、H@T監督になるのではないか。六甲おろしのとどろく中で、H@G監督の胴上げがなされるのか・・・結果はそうではなかった。Tファンも、おとなになったもんである。しかし、簡単に引き分けに持ち込むことができた試合を、負けに持ちこんだ。この判断力の欠如、これはどうしようもない。これは末永く、帝国球界の痛恨事になるはずである。少なくともV9は無理であろう。

アタマ洗って、出直してこい!
2002/09/24(Tue) 晴れ


[ 季節は去りつつも・・・ ]
久し振りに、奈良県は吉野郡のY川の鮎を見に行ってきました。もう投網を打ち出しているようです。シーズンの手仕舞いといったところです。ギリギリでした。ここY川の鮎は、それでもあまり大きくはならないのが特徴で、この時期でも初鮎の面影が感じられます。そうそう、近々、梁(やな)の復活も計画されているそうです。

テバとしては、塩焼き一本勝負でありましたので、同行のI君に大部分を譲ります。そういえば、鮎のメニューに鮨を入れておくのを忘れていました。

というわけで、これまでにお会いした鮎君のメニューを若干整理しておきますと、

●つくり ●背ごし ●鮎こく ●田楽(ホイル焼) ●天ぷら ●フライ ●唐揚げ
●味噌炊き     ●雑炊  ●鮨(いざさ鮨)  ●炊き込みご飯   ●釜飯
●甘露煮 ●開き(一夜干)

これらの他、鮎を素焼きにし陰干ししたものを、「出汁(ダシ)」を取るのに使ったりもしています。Y川沿岸のお正月のお雑煮の出汁は、これだそうです。最盛期に造りだめして、冷凍しておきます。
2002/09/21(Sat) 晴れ


[ 生存/死亡 ]
K宰相はK大のK済学部らしいから、あの伝ならば、生命保険を売らせても、多分トップセールスマンになられたことだろう。即ち、かのトルーマンである。彼は、靴のトップセールスマンからFDルーズベルトの副大統領になり、そして歴史上空前絶後、2発の核爆弾投下を命ずる大統領にまで成り上がった。保険のセールスマンから叩き上げていたのなら、K宰相が平○で調印をしたことも許してあげられるのかもしれない。しかし彼は「入れ墨国務大臣」から三代目の正当なる政治家である。その息子も、既に著名なアルコール・タレントである。そこまで、由緒も血筋も正しい政治家なのだ。それなら・・・自分が統計学の世界にはド素人であることを察知すべきであった。いや、取り巻きが悪いのかも知れない。彼らは、陸奥宗光や小村寿太郎のような万能(よろず屋さん)でないことを知るべきであった。少なくとも、本邦トップの生命保険会社から本邦トップの統計屋(ニッ○イとかのおばさんとかじゃないよ)を連れて行くぐらいの配慮は必要であったのではないか・・・あの、おぼっちゃまぞろいの、外○官僚は。

只今現在、必死に日朝の平均余命表を集めつつある。個々人の生年月日と死亡年月日のデータも集めつつある。ケネディ暗殺後の証人たちの死亡確率と較べても、遜色ないはずだ。が、残念ながら、データはいまだ不完全である。ならば、わが正気を保つため、判りよい事例で考えておこう。しかもこれは、圧倒的に「大数の法則」が成り立つ事例である。日露戦争の旅順攻略戦である。これも種々の記録があるのだが、最大の死傷率を示すデータでさえ、13万人の将兵が突貫攻撃をし、5.9万人が死傷(傷も含む)という程度だ。16万分の3万という説もある。これは、一年にも満たない期間で起こったのだが、このことは、乃○他の低劣な指揮のもとで、露軍の機関銃等の猛火に、裸で身を曝す羽目になるような肉弾攻撃を強いられたことが原因だということが判明している。問題は、13人の人間が20年たらずの間に、語学教育をしているだけで、8〜9人も死亡してしまうのかということである。ありえない、と断定できる。これではノ○の教師になり手がいなくなるではないか。どんな高給優遇をしても、無理な話よね。

であれば、北○鮮はある種被拉致他民族にとっては、ガダルカナルやインパール並みだというのだろうか。・・・そうなのかも知れない。

「一日だけの良い子」(by M.K.)
2002/09/19(Thr) 晴れ


[ 小樽 ]
 
 かなしきは 小樽の町よ 歌ふこと なき人々の 声の荒さよ

実に久しぶりに小樽に行って来ました。以前は仕事中心だったので、いくつかの「簡単な」名所を駆け足でしたが、今回は、比較的のんびりです。お寿司屋さんにも入りましたけど、声の荒いイタさんはいませんでした。よほど厳選しないと、もうあまり残っていないのでしょうか。

裕次郎記念館にまで行ってしまいました。TVなどでは見るものの、自分には生涯縁がないものと思ってましたから。入り口に到達しただけで感動です。「ハレ・コンテッサ」っていうラウンジで「裕次郎ビール」を飲みました。陽気な伯爵夫人とか。ひょっとして華族の流れ?

古いレコードのジャケットや映画のポスター、生前愛用の品々、やはり一つの時代を作っていた人だと思いました。初期のLP「裕ちゃんと貴女の部屋」には涙してしまいました。赤いストライプのソックスに赤地に白い水玉のマフラーの裕ちゃんが、犬を抱いて徹子のお部屋しています。

初期のLPには、「裕ちゃんの週末旅行」とか「裕ちゃんとかくし芸」なんてーのがゴロゴロしていて、まさに宝の山です。いろいろ見ているうちに、少々気恥ずかしくなってきました。そこで、残念ながら、後半は早足で通り過ぎることになってしまいました。1500円の半分返せ!

これは、わかりますよね。長島茂雄(特に巨人監督時の)を見ていても感ずるあの気持ちです。同時代であったことの裏返しです。裕ちゃんや長島さんばかり見て育った証拠です。彼らを一所懸命見ている自分がいて、その自分を見ている自分がいる。妖怪・首すくめ登場。キャッ!
2002/09/18(Wed) 晴れ


[ 万能医学 ]
家族が変なネックレスをしているということには、大分以前から気付いていたのでした。そのうちに飽きるんだろうナと思って見ていたのですが、まだ続けています。そこで最近、「ドレドレ、チョットね」なんて言いながら、借りてみました。そしたら、存外、調子が良いようなので、自分でも購入するハメになりました。現在、気付いたら、ネックレス一本、ブレスレット(バングル or リストバンド)一本、そして、ネックレスを2本繋いだ駅伝タスキ風のもの(自分で考案)一本と、ガンダム・フル装備モードになってしまいました。

主要素材は炭化チタン(TiC)とかいう、ある種のハイブリッドもののようです。そのまんまの受け売り説明ですが、「体内の生体電気の流れが良くなり、乱れた生体電流を整えてくれます。それらの刺激が血行を促進し、交感神経に働きかけて痛みを軽くし、関節や筋肉の運動機能を高めたりするのです」だそうです。ということは、これまでの自分は、体内の生体電流の流れが悪く、乱れていて、血行が滞って、交感神経が痛み、運動機能が低かったことになってしまいます。これは相当の重病人ですよね。危なかった。余命旦夕ヲ知ラズ。

医科には、ヒト関連だけを数えても、ざっと20から30ぐらいの大分類があるそうですが、これらのうち、ほとんどの科の症状に該当していたことになります。さすがは複合素材です。70年ほど前、92番のウランで元素はお終い、あとはおさらいという時代が、急激に変化します。重元素は登場するし核分裂も発見されました。あれよあれよという間に、核爆弾は開発されるし、原発も建設されました。それも終わって、現在は、反省と謝罪の時代に突入しています。新素材はどうなるんでしょうか。「自己責任デ使用セヨ」かな。

サルが反省し、ヒトが謝罪する、思えばこれこそが霊長類の歴史でした。
2002/09/14(Sat) 晴れ


[ 長漁3705 ]
やっと不審船の船名がわかった。「長漁3705」であるらしい。もっとも、この世のことは見かけ通りとは限らないから、実名があって、それが「建御雷」であるという可能性も否定はできない。それはそれとして、長漁3705の意味を考察したい。もちろん、長漁は「長駆して漁をする」ということである。さすが、某国のネーミングである。発想からして、雄渾である。素晴らしい。

問題は、どこで漁をするつもりだったか、ということ。それが3705である。海であることから、3705海里(約6800q)といきたいが、大型エンジンが4基も装備されていたことを考えると、あの大きさの船でこれだけの航続距離は無理である。ロケット砲なども積んでいたから、積載燃料には限りがあったはずだ。3705q程度が妥当な線だろう。片航程1850qである。

出港地は、当然ながら、不審船のまほろば、咸○北道あたりに想定したい。清○などの、名の通った良港がある。ここから一路南下する。他国の領海に注意しよう。釜山と対馬の間を抜け、済州島と五島列島の間を南下する。片航程1850qで、ズバリ、慶良間諸島の沖に達する。そういえば、不審によく釣れていそうな船とか、不審な位クーラーがぎっしりの釣り師とかを見かけたもんである。

で、あとの「5q」はどーすんだよ、と言うあなた、よくぞ気付きました。このぐらいは、港の出入りとか、現場での移動のために必要なんですよね。あと、魚探、レーダ、GPS、船のトイレなんかも燃料を喰いますから、ちょうどピッタシになるんです、3705を設計した技術屋さんは、本当に偉い! 少々細か過ぎるような気がしないでもないけど、こういう緻密なヒトがいれば、国も安心。

ここまで理路整然と考えれば、邪馬台国だって慶良間に持ってこれるけどね・・・それにしても、師匠、ちゃんと不審してるかな?
2002/09/11(Wed) 晴れ


[ 三歳孝行 ]
四文字熟語のお勉強です。標記は、どうも二通りの使われかたがあるようです。似ているような、微妙に違うような、あるいは、併せて一本ワザ的な感じでもあるような、です。まず@。親にとって子供が可愛いのは、無心な3歳ぐらいまでで、その後は、苦労をかけられるばかりである、というもの。次、Aです。子供は3歳ぐらいまでの成長過程で、あらゆる楽しみを親に味わせてくれる、です。自分のことは記憶がないので、その他の例をもとに考察してみると、どちらも言えているような気になってきます。共通しているのは、4歳以降の馬齢期に達した子供というものは、親にとっては、心配の種、頭痛の種に過ぎないということです。

最近、思い当たることもこれあり、忍び寄る秋の気配を感ずるテバなのでありました。
2002/09/10(Tue) 晴れ


[ 夏の終わり ]
夜半、雷をともなった驟雨があった。季節の変化の予告だろうか。この雷というもの、盛夏のものとは限らないからややこしい。一般に冬にはないとされるが、昔、奈良は吉野の山中にいたころ、冬の雷、つまり「寒雷」によく出会った。あのあたりは、気象統計などでも、年間の雷発生日数で、全国一・二を争う地域であった。「春雷」、あるいは雪国でいう「雪起こし」は、春先に、気温の成層が不安定な時期に発生する。

夏の終わりに、この時期の雷は何と呼ばれているのだろう? 前線の通過による大気の不安定が原因、と言ってしまえばそれまでだが、もう一工夫欲しくなる。夏の雷の落武者みたいなものだから、「残ンの雷(らい)」? 秋彼岸も間近だから、「彼岸寄せ」? ともかく、残暑はあっても猛暑の夏がどこかに隠れるのだから「夏籠もる」? ま、なんとか名前を付けてやりたいような、ほっとする雷ではある。

わが家にハムがいる。二代目になる。あの香片大居士の跡継ぎである。先代が亡くなった翌日にやってきた。初対面の時、思わず手に載せて、子供に叱られてしまった。そろそろ十日ぐらいになるから、慣れてきたのではないかとも思うが、まだまだそっとしてある。種類が違うようで、真っ白い毛並みである。この子はいつまで・・・まあ、そんなことは考えまい。お互いに、定命のある身なのだから。

 もうひとつ 夏過ごしけり 残ンの雷

 遠雷の なお遠ざかる 彼岸寄せ

 雨足の やや力無く 夏籠もる
2002/09/07(Sat) 晴れ


[ ある先生 ]
某先生のデジタル・ディバイドぶりは、もはや「有名」の域に達してしまったらしい。というのは、この頃、同じ話をあちこちから聞くからである。そうしたあれこれを組み合わせていくと、おぼろげながら全貌が浮かんでくる。どんな話かというと、

○先生にメールを打ったら、その旨、必ず電話でお知らせしなければならない。さもないと、PCに電源を入れていただけず、場合によっては、永久に放置されるおそれさえある。

○時間的余裕があるなら、「拝啓、・・・メールしときましたので、ご覧くだされば幸い・・・」などと、信書でお知らせする方がよい。季節の挨拶なども入れると、丁寧だといって、先生は喜ばれるそうだ。

○PCをオンにし、メールをプリントするのは研究室の学生等である。学生等が不在であると、メールはなかなか先生の目に触れない。したがって、十分な時間的余裕が必要である。夜間、週末は不可。

○先生からは、絶対、メールは来ない。手紙あるいは(急ぐ場合)FAXである。どうやらFAXにはディバイドではないようである。ワープロもやらないので、懼れ多くも、いつでもご宸筆が頂ける。

○メールの転送もFAXで来ることが多い。「メール転送」っていう機能はおろか、メーラーの存在すらご存じないのだから、当然である。この場合、電子→紙→電子→紙という手順を踏むわけですね。

それでも先生は、快調で充実した日々を送っておられる。世のデジタル・ディバイド諸君に勇気を与えつつ。
2002/09/03(Tue) 晴れ


[ DANS UN AN, ]
嘉利由の地を離れて、ちょうど一年が経ちました。そこで、近況報告です。

まずは、例の古酒(クース)の件です。推定年齢満6歳を無事達成いたしました。6升8合から、ビタ一勺減っていません。意志力の勝利! まあ、それほどのことでもありませんかね。そうそう、その方面関連の話題ですが、父とも崇敬して止まないHさんの、名護は『泡盛リッチ』におけるご健闘の様子が、やっとアップロードされたようです。あの「どぜう転がし」のHさんです。実名も出されてしまっていますから、いまさらHさんもないのですが、本サイトとしては礼儀正しくしておきましょね。なおテバは、一回チャレンジしましたが、敢えなく敗退しております。しばらくはHさんの自画自賛の嵐に耐えなければなりませんが、敗軍の将は兵を語らずですから・・・

つぎ、ダイエットです。若干危険視されるトライではありましたが、案の定、東京の猛暑に相当のダメージを受けました。なお、ムシムシという言葉は京都が本場の、かなり簡潔な表現らしく、近々、スシ、テンプラと並んで世界語の地位が固いようです。で、仕方なくウナギもカレーライスも何でもかんでも、意の(胃の)おもむくままに食べることとしました。お陰様で夏バテ解消はしましたが、安定体重から2.5sほどオーバーしました。しかし苦労は報われます。ご安心ください。先日からやゝ涼しくなったので、少しだけ元のペースに戻したところ、たちまち安定体重に復帰いたしました。(「お陰様」とか「ご安心」とかは単なる修辞に過ぎませんので、ご放念を)

最後にサンシン、「三村踊り節(ミムラウドゥイ)」の暗譜が大体終わりました。こいつは本格的カチャーシなので、あとは早弾きに打ち込むのみです。ここまで1年と半月がかかりましたが、大部分が独習とはいえ、最初に手ほどき下さったD師匠には、感謝の言葉さえありません。何といっても、「構えの基本」と「右手を見るな、左手を見るなの法則」を教えて下さったのですから。実は、春からしばらくサボっていたので、再開第一曲、というあたりです。でも、独習ですから、授業料も払っていません。筑波のK君がCDなんかはいっぱい持ってるそうです。もっとも、K君は「ちんだみ」に問題があるという噂がありましたから、この件であんまり接触するのも考え物です。

そんなわけで、なんとかカリユシしてますが、来年の今月・今夜は、どうなっているんでしょね。

(そうそう、リッチは101番の方ですヨ)
2002/09/02(Mon) 晴れ