[ 曰、苦。 ] |
そう、9月も終わる。子規がなくなってから、100年が過ぎた(昨年が子規忌100年祭だったらしい)。35歳を目前の夭折であったようだ。20世紀に来たるべきものに、限りない関心と憧れを持ちながら、決してそれを見ることなく終わった生涯だった。ある意味では不幸である。しかし、ある意味では幸福であった、と言えないこともないような気もする。
絶筆となった「病牀六尺」には、以前から気になっている記述があった。第21回である。この前後の画論などを読んでいても、この時期、子規の「頭」は、かなりしっかりしていたようだ。
二十一
○余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。
○因みに問ふ。狗子に仏性ありや。曰、苦。 (チナミニトフ。クシニブッショウアリヤ。イワク、ク。)
また問ふ。祖師西来の意は奈何。曰、苦。
また問ふ。・・・・・・・・・。曰、苦。
(六月二日)
ここの前段ゆえに、子規は、後世から絶賛されることが多いようだ。褒める方々の立場も理解することができる。「武士道は死ぬることと・・・」という古い時代の精神を、新時代にふさわしい「生命礼賛」に転換した、つまり、ヒューマニズムの旗手と見ているのだろう。では、そうすると、唐突に置かれた感もする、後段の公案はどう理解するのか。これが解らない。
この公案の原典はこうである。
○趙州和尚、因僧問、狗子還有仏性也無。州云、無。
(因みに僧問ふ、狗子に還って仏性有りや無しや。州曰く、無。)
犬の仏性の有無についての議論を通じて、(人の)仏性の本質を論じているのであって、生の苦楽について論じているのではない。祖師(達磨)西来の答えは、原典では「曰、脚下照顧。」であり、やはり苦楽論ではない。ましてや、とどのつまりの一切問とも解すべき「・・・」への(子規居士の)答えも、一切「曰、苦。」になっている。このアフォリズムは何だろう。
結局、この時期、子規は「絶対苦」の向こうに「絶対楽」を垣間見ていたのではないだろうか。結核が進行し、脊椎カリエスに苦しみながら、諸外国、日本国、政府、軍事、経済、俳句、短歌、演劇、歌舞伎、能楽、狂言、東西の絵画、子女教育、庶民、泥棒のこと・・・、全世界の文明・文化を心配してやまない病牀六尺の宇宙、何よりもそれを支えた頭脳、これこそが子規の凄味と言えよう。
20世紀の経営哲学のひとつであり、しかも、ほぼ失敗であったと評価されつつある軟弱な人道主義、こんなものと混同されるのは迷惑千万に違いない。
2002/09/29(Sun)
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