<テバコラ 第45話>


☆一天無双☆
                      
(2000/07/06)



世に、貴族、特に大貴族ほどあてにならないものはない。最初は南朝に

肩入れしていた二条良基は、いつの間にか北朝に仕えるようになる。

足利尊氏も良基の学識を大層重宝した。ついに良基は、摂政関白太政大臣に

登り詰める。こうなると、納豆太郎糸家の存在は、少々微妙な問題となる。

何といっても新田義貞の忘れ形見である。そこで、良基は次男の

経嗣(つねつぐ)が一条家の養子に貰われていった機会に、糸家をこれに

従わせた。皮肉なことに、その後、関白ポストも経嗣とともに一条家に行った。


南北朝の統一がなって、動乱の世にも小康が訪れたころのある日、経嗣は

二人目の男の子に恵まれる。これが「一天無双の才人」と称され、あるいは

遥か後世「日本のルネッサンス人」とも呼ばれることになる、

一条兼良(かねら・かねよし・かねなが)である。兼良は兄をさしおいて、

二度も関白位を極めることになる。この兼良の代には、糸家の息子糸国と

その子糸重が身辺に仕えていた。


ある夜、兼良のお伽は、すでに老境の納豆太郎糸国とその子糸重であった。

ここで兼良は、彼らから驚くべき物語りを聞かされる。彼らが、遠く四百年前に

絶えたとされる、安倍本流貞任の直系の子孫であること。千代童子が義家に

助命されたこと。その血筋は義家の子義国の手によって、上州新田の庄に

源氏として扶植されたこと。その末裔たる義貞と光厳上皇とのこと。匂当内侍の

縁で二条家、ひいては一条家の家人として仕えていること……などなどである。


足利将軍家の威信はとうに低下し、時代はふたたび騒がしくなってきている。

納豆太郎たちの来歴は、一条家にとっても厄介な政治問題を生ずるおそれがある。

世の中がもう少し違っていたら、一天無双の兼良のことである、この夜聞いた話を

克明に記録し、注釈を加え、後世に残したに違いない。納豆史学のためには、

まことに惜しまれることである。だが、兼良は、二点の重要資料を残した。


ひとつは、当時大量に創作された、お伽草子の形をとって書かれたもので、

「精進魚類物語」あるいは「魚鳥平家」として今に伝わるものである。

なまぐさ「魚鳥軍」と「精進軍」が合戦し、精進軍が勝つという、勧善懲悪物の

一種である。精進軍の総大将は、当然、納豆太郎糸重である。ここで、兼良は、

納豆を精進料理の代表格として、高い評価を与えている。あるいは、前九年の

役で敗死した、安倍貞任への鎮魂だったのかもしれない。


もうひとつは「鴉鷺(あろ)物語」で、ここには「義家朝臣鎧着用次第」が記されている。

つまり、八幡太郎義家が、下帯から始めて鎧を完全装備するに至る手順が、

極めて克明に述べられているのである。そして、この古記録は「左中将義貞朝臣」

つまり新田義貞が残したものだ、とはっきりと注記している。義家に側近く仕えた

納任が実見を記録し、これが孫の新田義重の手を経て、新田義貞に、そして

納豆太郎糸重へと伝わったものである。


中世の大才人の手によって、納豆史学に貢献すること大なる、第一級の文献資料が

残されたことに感謝したい。


この直後の応仁の乱を皮切りに、時代は戦国乱世へと大きく傾斜する。爆発的な

生産性の向上、それを処理できない古い社会システム、典型的なバブル発生の条件

である。この時代も、エネルギーは土地へと向かった。銀行屋さんがいなかったので、

武力争奪という形式をとったが、これは避けようもないことであった。一条兼良も

戦火を避け、京の都を離れ、諸所を転々とすることになる。兼良の長男教房などは

土佐の所領に下向疎開し、土着して土佐一条家を起こす。


そして、納豆太郎は……


                         (未完)