<テバコラ 第43話>


☆法皇の納豆☆
                      
(2000/07/01)



鎌倉幕府を打倒した義貞は、後醍醐天皇の勅命により上洛する。

そこで展開されたのが建武の新政。しかし、新政とは名ばかり、何百年も

時計の針を戻したような、公家の専権政治であった。武家の二人の棟梁、

新田義貞と足利尊氏は、ともに不満である。いずれ何らかの変事が起こる

ことを、予感させる世相であった。ここで義貞は、丹波に逼塞している

前帝・光厳(こうごん)法皇と、密かに接触をはかるようになる。


この二人の間を取り持ったのは、匂当内侍(こうとうのないし)である。

匂当内侍は光厳天皇時代の内裏の女官であった。後醍醐天皇復帰、

光厳天皇廃位に際し、後宮の在庫入れ替えが行われる。この一環として、

大手柄の義貞に、褒美として内侍が下げ渡されたものである。負け組である

鎌倉方の領地は、公家が我先に分け取りしてしまい、ほとんど残っていない。

恩賞が足りない。そこで、武家には現物支給でお茶でも濁しておけという、

後醍醐帝が時々見せた「IB法(行き当たりばったり法)」の好例である。


光厳天皇は後醍醐天皇の皇太子であったが、後醍醐帝が隠岐に流された折に、

鎌倉幕府に擁立され即位した。しかし、間もなく後醍醐側の巻き返しが成功、

倒幕となったために、廃位の憂き目にあう。わずか一年数ヶ月の在位であった。

後醍醐帝は光厳天皇の即位そのものが無効だとしている。したがって院を開店

することも許されず、仏門に帰依している。光厳法皇、弱冠二十歳、再起の

野心は満々である。義貞にとっては、ポスト後醍醐として担ぎ出すとすれば、

絶好の切り札である。


京から法皇のご在所までは意外と近い。義貞は源九郎義経ゆかりの鞍馬詣でを

口実に、都を抜け出す。下賀茂から高野川をさかのぼると岩倉村。この道筋は、

五百年後、再び謀略街道となる。大久保利通が岩倉具視のもとに通うのである。

さらに進むと貴船口。鞍馬から花背峠を抜ける道は人の往来も多いので、ここで

道を左に取る。貴船川に沿って芹生峠を越え、そこから灰屋川とともに谷を下ると、

大堰川(おおいがわ)に当たる。間もなく法皇のいます常照寺に達する。馬で

ほんの半日ほどの距離である。


義貞は頻繁に通った。この行き来のなか、義貞は、家伝の糸引納豆製法を、

法皇周辺に伝えたのである。これが、京都は京北町に今日も残る、山国納豆の

起こりである。法皇と義貞のやりとりは極秘のうちに行われた。したがって、

義貞の名が表に出ることはなく、この納豆は「法皇様の納豆」と呼ばれた。



この後、法皇と足利尊氏との関係が、意外な進展を見せたため、義貞との関係は、

ますます知られてはならないことになっていく。