<テバコラ 第41話>


☆後三年の納任☆
                      
(2000/06/28)



京の都に伴われた千代童子は、八幡太郎義家の手許で傅育される。義家は、

この一回り年下の利発な少年を、心からかわいがったようである。月日は流れ、

元服を済ませ、成年に達する。その元服名は? さて困った、それが判らない。

安倍貞任の嫡男が生存しているなどということは、絶対に知られてはならないことだ。

露見すれば、源氏の立場は一挙に危うくなる。当主の頼義・義家と周囲の一部だけが

知る、極秘事項である。もちろん彼の出自については、巧妙に偽装されていたのだが、

簡単な記録を残すことさえ、慎重に回避されていた。しかし名無しでは不便だ。そこで、

ここでは仮に、「納任(なっとう)」と呼んでおくことにする。


納任は義家のごく身近に仕えていたらしく、これを裏付ける文書が、後で触れることに

なるが、室町期に出現している。源家での納任の役割は、家令とか執事というような、

あくまでも内向きのものであった。そこに、再び奥州に戦乱勃発、後三年の役である。

この機会に納任は、その持てる才幹・知識を遺憾なく発揮する。時に納任は三十代半ば、

まさに働きざかり。輜重(補給)の切り盛りなどで、総大将義家を大いに援けた。

この戦役に際し納任は、清正に五百年も先んじて、糸引納豆を陣中食として大々的に

採用している。むしろ、寒さと飢えに悩まされながらも、納豆パワーという援軍が

あったので、かろうじて勝利が得られた、というのが正しいのかもしれない。


後三年の役の最終的勝利者は、清原清衡である。後に藤原清衡と改姓、奥州藤原

三代の黄金時代の幕を開く人物である。役の冒頭では義家と干戈を交えていながら、

最後には義家に与し、前九年・後三年を総精算するかのように、全奥州を手に入れた

のだが、この清衡は、実は、貞任の妹の子であった。つまり、安倍本宗家が二十年の

歳月を経て蘇った、という見方もできる。納任と清衡は、おさななじみのいとこ同志である。

義家軍の中枢深くにいた納任、彼が義家ら軍幹部に巧みに働きかけるさまが、

目に見えるようである。


後三年の役が、糸引納豆発祥との関係を喧伝されるのは、以上のような事情から

である。千代童子が伝承した安倍の糸引納豆は、この時を境に、東日本に広まった。

京都には興味深い伝承がある。糸引納豆は義家軍に従軍した京都近郷の人々が

流布した、というものである。もうおわかりだろう。千代童子が一旦奥州から京に移り、

長じて納任となって京から再び奥州へ、糸引納豆と共に帰還したことの反映である。

千代童子、改め、納任の存在は、あくまでも秘されていたのである。


時代は胎動を続ける。藤原三代の栄華も、夢のように過ぎ去ることだろう。そのあとには、

本格的な武家政権が登場することになる。