<テバコラ 第40話>


☆肥後の納豆☆
                      
(2000/06/22)



糸引納豆の起源を後三年の役に求める説は、広く支持されている。

関係学会も、おおむね、この線に沿った学説を正統と認めているようだ。

しかし、歴史というもは一筋縄ではいかない。膨大なファクト(事実)の集積で

ありながら、そこにひとつまみのフィクション(作り事)を混ぜるだけで、思いも

かけないことが、後世真実としてまかり通り出すのである。あたかも納豆と薬味の

関係のように。この糸引納豆の起源問題は、その好例かもしれない。


後三年の役に二十年ほど先立つ、前九年の役の方にこそ糸引納豆のルーツが

あるとする説がある。この役の場合、八幡太郎義家は副将で、総大将は父の

源頼義であった。敵方の主役は「年を経し糸の乱れの苦しさに」で名を残した、

あの安倍貞任(さだとう)である。天王山とでもいうべき衣川の戦いにおいて、

義家が「衣のたては綻びにけり」と呼び掛けたのに応えたもの、と伝えられる。

双方あっぱれな武者振りといえる。結局、この役の顛末だが、貞任、重任兄弟の

戦死、斬首などにより、奥州安倍総本家の血筋が絶えたとされる。


安倍の分家で、彼らの叔父さん筋にあたる、安倍宗任(むねとう)、家任などは、

投降のうえ助命されている。安倍宗任は九州の太宰府に流されるのだが、この

配流の地で、糸引納豆の製法を広めたとされる。その後、この技術は、九州は

肥後の国の片隅で細々と継承されていった。戦国も終わろうとする天正期、新たに

肥後の国主に着任したのが加藤清正である。加藤清正の慧眼は、この食品が、

脚気などの陣中の病に対する特効薬である、ということを見抜く。秀吉の朝鮮の役

に際し、加藤清正軍中で大いに活用されたという。ここで加藤清正と糸引納豆の

関係が明らかになった。


しかし新たな疑問が生ずる。なぜ、安倍宗任は糸引納豆の技術を身につけていたの

だろうか。なぜ、太宰府で広められた糸引納豆が、そこからかなり離れた、肥後の

国で引き継がれていったのだろうか。


ところで、不思議な噂が流れる。乱の首謀者であった安倍貞任は、実は死んでいない。

死んでいないどころか、その後、義家の側近として永く仕え続けた、というものだ。

貞任の死については、「國解」という国司から朝廷への公式報告書に、はっきりと

記されている。また、「陸奥話記」という軍記物にも、克明に記述されている。しかし、

國解の報告責任者は義家の父の源頼義であり、頼義が見たのは絶命寸前の貞任

であった。陸奥話記は、前九年の役の終焉直後に書かれており、軍記物としては

異様な速報性をもっている。このため、役の関係者による事前検閲が充分可能な

状況下で編纂されている。しかしながら真相は、更に思いがけないところにあった。


貞任の子に千代(世)童子という、容貌美麗な若者があった。前九年の役の最終戦

である廚川(くりやがわ)の戦いでは、十三歳という若さで、よく戦い、安倍惣領家の

名を辱めない勇ましさであったという。頼義もこれを哀れみ、このジャニーズ風青少年を

助命しようとしたが、周りに諫める者があり、これを斬ったとされている。良くできた話

である。誰しも、陸奥話記のこのくだりには涙し、ゆめ疑うことはしなかった。しかし、

しかしである。千代童子は、助命され匿まわれていたのだ。そして、義家の郎党の

一員として養育されていったのである。このことが、時に貞任延命説が世上流布した、

ということの背景をなしていたのである。


この千代童子こそ、もう一人の糸引納豆伝承者であった。