<テバコラ 第31話>


☆ベリー公の法外に豪奢な…☆ -福禄寿(V)-
                  
(2000/04/30)



ベリー公ジャン、デュク・ド・ベリーあるいはジャン・ド・ベリーは、ヴァロア家の一門で、

フランス王ジャン二世(善良王)の三男である。長兄は後のフランス王シャルル五世

(賢明王)、弟はブルゴーニュ公フィリップ(豪胆公)という、十四〜五世紀の泰西

中原の名門中の名門である。フランス中央部のブルジュ附近の、ベリーを主な所領

としていた。そこで、ジャン・ド・フランスとも呼ばれる。


この時代のフランスは、大変な危機に見舞われていた。ベリー公ジャンが生まれる

前後には、例の百年戦争が始まっている。英国の新兵器・長弓は、その射程距離、

速射力ともに凄まじく、相変わらず「やあやあ……」とやっている仏国騎士群を、

たちまち戦闘不能してしまう。フランスの連戦連敗、ついには善良王ジャンも黒太子

エドワードに捕らわれてしまった。百年戦争は中世騎士道の息の根を止め、戦争

というものを、殲滅戦・焦土戦、そして組織的略奪戦へと変貌させたといわれる。

英国側は、割のいい出稼ぎとして考えていたフシがある。


数世紀間続いた農業生産性の向上は、このころすでに頭打ちになり始めていた。

そこに14世紀の冒頭からの天候不順が重なり、社会の活力が大きく失われて

きつつあった。その最中に戦禍が起こったのだが、これでも不足とばかり、

ベリー公の少年期には、ペストの大流行が全ヨーロッパを襲う。人口の三分の一が

失われた。国内では、物価騰貴、人手不足等々、不和の種には事欠かず、

紛争・内乱がうち続く。


善良王ジャンは、その名のとおり、善良だけが取り柄の、あまり危機管理能力は

ない王様だったようだ。この王が亡くなり、輿望を担った賢明王シャルルが後を継ぐ。

期待に背かず、対英戦争も順調に展開し始めるが、突然、四十代で夭折してしまう。

この後継者は親愛王シャルル六世だが、この王様は王妃イザベラの浮気が原因で、

たちまち精神に支障を……という始末。しかも悪いことに、この親愛王が長生きで、

それから三十年近くも在位した。


どうも、ヴァロア家の血も薄くなったのか、親愛王の王弟オルレアン公ルイを、

従兄弟のブルゴーニュ公ジャン(無怖公)が暗殺してしまい、ここに十五世紀早々、

アルマニャック派対ブルゴーニュ派の、文字通り血で血を洗う国内抗争が始まる。

チャンスとばかり英国がちょっかいをかけ始める。百年戦争の後半戦の開幕である。

そしてジャンヌ・ダルクも登場し、という、皆様ご存じの泰西版太平記のお粗末……。


この間、ベリー公ジャンも無関係というわけにはいかない。なにせ、兄弟・甥っ子が

皆、錚々たる大物ばかりだ。世間がほうっておいてはくれない。ただ、どちらか

というと穏健派で、英国との和平交渉をしてみたり、アル派とブル派を和解させようと

努力したりしていたらしい。そのうえに、十一世紀以来の東西教会の大分裂も

終息させようとしていたらしく、頭が下がるのであるが、世間というもの、その程度の

志を忖度してくれるほど甘くはない。


ベリー公はアルマニャック派だというレッテルを貼られてしまう。ブルゴーニュ派の

方は、今で言うところの武闘派だからさあ大変、とうとう1411年には、暴徒により

彼のネスルの居館は荒らされるし、ビセトルの城は略奪・放火されてしまう。

彼の所蔵していた高価・貴重な美術品の多くが失われてしまったという。


1416年ベリー公没。その前年、アザンクールの戦いで仏軍は英軍に大敗北。

彼は失意のうちにこの世を去ったに違いない…………というのが一説。しかし、

である。まず、主要登場人物の死亡時年齢を見てみよう。(概数です)


善良王ジャン二世 45歳
賢明王シャルル五世 43歳
ベリー公ジャン 76歳
豪胆公フィリップ 62歳
親愛王シャルル六世 54歳 (狂)
オルレアン公ルイ 35歳(暗殺)
無怖公ジャン 48歳(闘死)


ベリー公と豪胆公を除き、なんとも早々と亡くなった方ばかりである。ここに見る、

総体としての短命さが、洋の東西を問わず、中世人の行動を読み解く鍵のひとつ

である、といわれている。現在の政治家の年齢に較べ、二回りぐらい若いうちに

活動のピークを迎えているが、そのため、行動は常に直情径行である。深謀とか

熟慮とか経験というものを、あまり感じさせない挙に出ることが多い。それにしても、

ベリー公の長命は抜きん出ている。


ところで、別格的長寿のベリー公だが、彼は中央フランスに豊かな領地を持っていた

にもかかわらず、しばしば経済的困難に陥ったという。それは彼が、贅沢な建築物、

希少な宝石、そして豪華に彩色された本(写本)といった、あらゆる美術・芸術分野

について、芸術家のよきパトロンであり、情熱的な蒐集家であったからである。

「法外に豪奢な人生」、とある評論家は彼の一生を論評している。


「ベリー公のいとも豪華なる時祷書」の一月には、彼の食卓が描かれている。

暖炉の正面に着席しているのがベリー公ジャンである。回りには、召使い、坊さん、

芸術家等をはべらせ、余裕の雰囲気を漂わせている。召使いも、酒杯を運ぶ者、

料理を出す者、肉を切り分ける者、卓上犬ポメラニアンの世話をする者……と、

作業の数だけ揃えている。実は、この時祷書の製作が着手されたのは、居館や

城が襲われた翌年の1412年だった。ゆえにこの作品は略奪・焼失を免れて

いたのだ。余裕、余裕。


「見せびらかしのための有閑」、「見せびらかしのための浪費」、こんな言葉がよく

似合う人生。そうあれです。当時のフランスの至高の家系の一員であり、しかも

長寿を誇った、ジャン・デュク・ド・ベリー。彼にこそ「レジャー階級」の称号は

ふさわしい。なお、この「豪華なる時祷書」をベリー公のために制作したランブール

(出身地ではリンブルグ)三兄弟は、準レジャー階級とでも申しあげるべきところ

であろうが、ベリー公が没した1416年、流行病により相前後して死没したという。