<テバコラ 第27話>


☆レジャー階級論☆ -福禄寿(U)-(2000/04/09)



20世紀はじめのアメリカに、ソルスタイン・ヴェプレンという社会学者がいました。

髭のよく似合うナイスな伯父さんですが、彼の書いたものに

「レジャー(有閑)階級の理論」というものがあります。この標題に使われた

「レジャー」こそ、20世紀を通じて盛んに使われた、レジャーという言葉の

「はしり」らしいのです。


この論文の舞台は、「高度未開社会」と呼ばれる、一見、不可解な社会です。

しかし、その代表例として挙げられているのが、封建体制下のヨーロッパと

日本、とくれば、ヴェプレン伯父さんが何を考えていたのか、大体のところは、

ハハーンとわかってきます。


彼は、文化人類学的な事例を、深く深く考察しました。そして、高度未開社会

にあっては、最上位に位置する階級が、レジャー(有閑)階級というべき

シロモノになっていることを発見したのです。


有閑ではありますが、しかし、彼らは決して無職ではありません。むしろ、通常、

大層立派な職業を持っています。ただし、彼らの職業には、生産性が一切ない

という、重要な特徴があります。非生産性こそ、この階級が高貴であることの

「あかし」なのです。


どんな職業かというと、政治、戦争、祭祀、スポーツ、などにかかわるものです。

特に戦士とか司祭とかは、最も純粋に非生産的なので、一・二をあらそう

至高の階級は、この職業に従事していることが多いのです。また、スポーツは、

最上位階級の職業としては、若干、疑いの目で見られている場合があるようです。


最上位階級の直下には、準レジャー階級というべきものもあります。

この階級は、武器、装備、戦闘用カヌーの細工や手入れ、馬・犬・鷹の世話、

あるいは、祭祀用聖具の保守などの手仕事に従事することで、最上位階級の

役に立っています。ただし、やはり、生産には結びつかない職業である、

という共通性を持っています。


「高度」以前の未開社会の例としては、北米のインディアン社会のような、

遊牧や狩猟をコトとする社会をあげています。そこでも、すでに、

レジャー階級の芽が見られると言います。ただし、ここでは、階級というよりは、

むしろ男女間の分業という形になっているそうです。つまり、日常の生活に

不可欠な作業は、すべて女性たちが行い、男性はそのような生産的な作業には

決して手を染めません。つまり、この社会で女たちが行っている作業には、

生産的なもの全てが含まれていて、逆に、男たちが行っていることには、

生産的なものは何もない、という、まことに身につまされる話なのです。


ヴェプレン伯父さんは、相当のフェミニストであったらしく、北米インディアン

社会の女性の扱いについては、「腹に据えかねる差別待遇だ!」という、

やゝ学者らしくない、過激な表現をしています。


この理論のユニークさを確かめます。たとえば、未開社会における「狩猟」は、

生産活動なのか、それともレジャーなのか、という応用問題を考えてみます。

それ以前の、マ○クスも含めた経済学者の常識では、狩猟は立派な

生産活動です。しかし、ヴェプレンの説に立つなら、狩猟はレジャーだ

ということになります。


さて、なぜ「高度」な未開社会でなければレジャー階級が成立しないのか、

ということです。世の中全体で生きていくのにカツカツ、というような社会では、

レジャー階級が食っていけないからなのです。レジャー階級が成り立つためには、

ある一部の階級がそれ以外の生産的な階級を食いものでき、しかも

共倒れにならない程度に、社会全体が発達している必要があったのです。


レジャー階級は、より完成度が高くなってくると、その地位を誇示するために、

「見せびらかしのための有閑」とか「見せびらかしのための浪費」、といったことを

始めるようです。フランスのある王様は、暖炉のそばに腰掛けていて、

暑くてたまらなくなったのですが、椅子を動かす係りの役人が周りに

いなかったので、熱射病で命を落としたといいます。ポリネシアのある部族の

酋長は、自分の食べ物を決して自分では口に運ばないそうですが、そのため、

お食事係がいないと、食べ物を前に飢え死にしてしまうそうです。これらは、

見せびらかしのための有閑の例です。見せびらかしのための浪費ぶりは、

食料、衣料、住居、家具などのあらゆるところで発揮されます。召使いに

お揃いのお仕着せを着せる、というようなことも、これに含まれるようです。


二十世紀という時代の開幕にあたって、ヴェブレンが言いたかったことが、

はっきりしてきました。当時のアメリカが目指していた方向を、明快に指し示して

いるようです。生産的な労働、これこそが、社会の上から下までの共通の

価値でなければならない、ということですね。人間と捕食者との違い、そして、

開明社会と未開社会との違いは、生産的な活動、というモラルを持てるかどうか

なのだ、ということですね。


さて、ヴェプレン伯父さんの論文から約百年たちました。当時にくらべると、

社会全体の富(禄)の量は圧倒的に増えきています。そうすると、生産的な

労働こそ、現在の我々の唯一の価値観になっているのでしょうか。どうも

そんな気はしないのです。周囲をちょっと見回しても、レジャー階級というべき

階級が、相変わらず社会の最上位を占めているような感じがします。しかも、

レジャー階級に属する捕食者たちは、数の上でも、割合の上でも、かえって、

ヴェブレンの当時より増えてきているような………。