<テバコラ 第26話>


☆ポテト博物館☆(2000/04/02)



大変な駆け足の旅だったけど、最後の用事も午前早くには済んで、あとは

夕方の便で日本へ帰るだけになった。国際化とかグローバル云々は、今後は、

若い連中に任せることにしよう。もうこりごりだ。昼飯前に大英博物館も

ちょっとだけど覗いたし、正直言って、帰国できる嬉しさから食欲も

少々回復してきた。博物館では、世界に25人しかいないという、

楔形文字研究会々員のお一人に案内をしていただいたのだが、この方が、

親切にも、昼飯ならここがよい、と正門前のミューゼアム・タバーンという

パブを紹介してくださった。


もちろん、フィッシュアンドチップスとビールを頼んだ。が、鱈のフライの巨大さと

フライドポテトの多量さには仰天した。わが惰弱な胃袋は、戦いが始まらないうちに、

すでにギブアップ気味である。それにしても、今回は、どこに行っても

大量のポテトがあったなあ、などと、ビールを舐めながら、しみじみ思い返す。


14世紀初頭を境に、ヨーロッパ社会は、それまでの目覚ましい発展を支えてきた、

農地の拡大や三圃式農業の普及など、すべてが飽和状態に達し、大きく失速を

始めたらしい。打ち続く疫病、戦乱、凶作……大量死、人口減少……

中世の秋であり、合い言葉は「死を想え」であった。肉が無くなり、パンが消え、

ワインも姿を消し、残るのはヒエ、ソバやビールのみ。

というこの時、新大陸がヨーロッパを救った。


ポテトは八千年位前に、現在のペルーやチリのあたりで栽培化されたという。

一番近いイトコはトマトということらしい。現在、その種は全世界で一万近い

らしいが、高冷な地域の作物であったため、雹などの気象災害に遇いやすく、

常に多くの種を混植しておくとことが、全滅・壊滅を回避する知恵でもあったようだ。

このポテトがスペインの財宝運搬船の片隅に積まれ、16世紀の終わりに

ヨーロッパに到達する。ちなみに、ほゞ同時期に、日本にはジャワ方面から

渡来しているが、この国では、それよりやゝ遅れて上陸した甘藷のほうが、

気候・嗜好ともに合っていたらしい。


スペインに上陸した方のポテトは、修道士の手によって、イタリア経由で、

北部ヨーロッパに至る。そこで、現在のドイツとなる地域の人々と、運命的な

出会いをする。フランスに入ったのはドイツ経由で、18世紀のことである。

この時に貢献したのは、戦時捕虜としてドイツに抑留され、嫌というほど

ポテトを食わされた、仏人パルマンティエである。彼は、帰国後、きわめて熱心に

裁培法、調理法を研究したという。きっと、自分だけひどい目に逢ったのは不公平だ、

と思ったのだろう。例のポタージュスープは、別名、ポタージュ・パルマンティエ、

あるいは、単に、パルマンティエ・スープとも呼ばれる。


イングランドでも裁培されたが、当初は、”未開の”アイルランド人向けの

移出品だったらしい。もっとも、こうしたことは、英国に限ったことではなく、

フランスでもゴッホの「ポテトを食べる人々」に登場するのは炭坑夫一家であり、

ミレーの「晩鐘」で、収穫されたポテトの籠を足許に置いて祈っているのは、

貧しい農民である。


第一次世界大戦後のドイツの超インフレは有名だが、このときには緊急通貨

と呼ばれる一群の非正規通貨が出回った。これらの中にはポテト通貨もあった。

たとえば額面が「25」と記載されたポテト通貨は、25キログラムのポテトと等価

であったという。今でも、南大西洋にはポテトそのものを通貨として使用している

島があるらしい。


今日では、世界人口の多くが、ポテトによって支えられていることは間違いない。

最近では、ポテトスターチは、コーンスターチと並んで、紙の原料や

石油プラスチックの代替品にまでなって、地球の環境さえ支えようとしている。

私たち日本人が米粒の中に仏様を見るように、欧米の人々はポテトの中に

神様を見ているに違いないのだ。


鱈のフライは片づけた。残るはフライドポテトの山。必死に神に祈るのだが、

神の加護うすきわが胃袋は、三分の一も行かぬうちに遂にダウンしたのであった。

皿を返却するカウンターの女の子の、刺すような視線を感じつつ、

むなしく、鯵フライ定食を懐かしむのであった。