<テバコラ 第25話>


☆ドルイドの樹☆(2000/03/26)



英国(UK)の正式呼称は、グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国

だそうだ。その王国とは、イングランド、ウェールズ、スコットランド、

そしてアイルランドである。これら四王国のうち、アングロ・サクソン人が

卓越するのはイングランドだけで、他の旧三王国の主要民族はケルト人である。

もちろん、連合王国の支配民族はアングロ・サクソン人である。


ヨーロッパの文化・文明は、ギリシャ・ローマとゲルマンとキリスト教の

三要素によって培われた、と言われる。この組み合わせは、ある時には

明碩・活力・博愛にもなるが、別の局面では、退廃・蛮性・偽善にもなるものだ。

ボスニアの悲劇もこの文脈上で理解できる。


しかしながら、特に文化の側面には、この三要素だけでは説明しきれない

陰翳がある。それがケルトである。歴史の深部に埋もれているために、

これがケルトだ、と名指せるものは少ない。しかし、あらゆる事象に、

背景画のように、あるいは黒子のように付きまとっている。

カエサルが征服戦争を仕掛けたガリアは、「ケルト人の国」という意味である。


紀元前五世紀にケルト文化が花開いたガリアの地は、当時、鬱蒼とした

ナラ(楢)の原生林に覆われていた。ナラは落葉樹であり、常緑のカシとは異なる。

冬には完全に葉を落とした枝が、ほとんど常に雲に覆われている空に向かい、

突き刺さるように伸びているという。色彩が全て失われた光景、

それがガリアの冬ということらしい。


ケルト人の中にドルイドと呼ばれる人々がいた。彼らは、キリスト教以降では、

魔法使いや占い師のように言われるようになったのだが、

ケルト文化全盛の時代には、哲学者、裁判官、教師、歴史家、医師、

千里眼を持った予言者、そして天文学者(占星術師)であった。

つまり、当時第一級の知識人であった。ドルイドの「ドルス」はナラの木を、

「イド」はサンスクッリットの「ヴィド」、つまり見ること知ることを意味した。

あわせると「ナラの木の賢者」ということになる。他にも、ナナカマド ハシバミ、

などの木も、崇敬の対象であったという。


ドルイドはケルトよりももっと古い、独特の民族集団だった、という説がある。

この説は更に魅力的かつ刺激的だ。アーリア人ですらないという。

いずれにせよ、少なくとも、イベリア、イタリア、バルカン、

アナトリアには無縁の、ミステリアスな集団である。


色彩のない季節のヨーロッパ、これにあこがれていた。なぜなら、

全ての葉を落としたナラの木に、唯一の色彩である緑の宿り木が見られるという。

宿り木は、地方によって呼び名が違う。「ギィ」と言ったり「ミスルトウ」とも

言ったりする。一般的にはパラサイトであろうが、これでは寄生虫でも、

宇治十帖の源氏の亜熱帯性宿り木でも、十把ひとからげになってしまう。


十二月の新月から六番目の夜に、ドルイドの最高神官はナラの木に登り、

金の鎌で宿り木を切り落とす。これこそが、ケルトの最高の祝祭であったという。

白い牛が犠牲に供され、祝宴がはられ、時には捕虜の首が刎ねられたという。

死に果てた歳を悼み、新たな歳の誕生を乞い願う。宿り木に託す豊穣の願い。

これこそヨーロッパの翳の翳だ。この時季にこそ、このギィが見られる

のかも知れない。胸がときめく。


最初の訪問地から、上空ばかりながめていた。路上でも、バスの窓からも、

上空ばかりをながめていた。ついには、同行の方々から、日本野鳥の会の

隠れ会員か、という嫌疑までかけられてしまった。たしかに鳥の巣はあった。

しかし、当然ながら、それは枯れ枝の集合体に過ぎない。色彩などはない。

もう駄目か、と諦めかかった時、その奇跡は起こった。


ベルリンから旧壁を越えてブランデンブルグ州に入った瞬間からである。

グリーンのボールが目にとまり出した。あのミスルトウだ。ポツダムに着くと、

それはナラの木を五線譜とした、ブランデンブルグ協奏曲の音符のように

躍動をしていた。ドルイドの樹にやっと出会えた。胸の奥が熱くなった。


その夜、旧壁があった時代からベルリンにいた人に聞いて、その理由がわかった。

宿り木は親木を痛めつける厄介者で、予算さえあれば剪定してしまうのだという。

現代のドルイドはやはり経済力だったのだ。