<テバコラ 第24話>


☆モダン・タイムス☆(2000/03/05)



それは、雪見酒とマージャンから始まったという。

そして、お定まりの、懲戒、辞職、……。


どうにもやり切れない。こんなことは考えたくもない。

どう考えて良いのか、皆目わからない、というのが正直なところだ。

しかし、ベンガルトラばかりを依怙贔屓はできない。

今回のことには、当時9歳だった女の子の件が絡んでいるのだから。


「私」という文字は、「禾=ノギ」つまり穀物を「ム=△」で囲い込む、

というように出来上がっている。逆に、「公」という文字は、この囲い込みを

否定するために、「△=ム」の上に「×=ハ」を載せたのだという。

当然、私人と公人とは矛盾する存在だ。しかしながら、私人用人間と

公人用人間という二種類の人間が最初からいるわけではない。

同じ人間が、楽屋と舞台を行ったり来たりしているだけなのだ。


どんな看板役者も時にはミスをする。そのために舞台監督を置く。

楽屋監督というのはいらない。楽屋では何をやってくれていてもいい。

観客は舞台を見るために入場料を払っているのだから。藤○寛美、

勝○太郎……、と、楽屋での出来事には観客は寛容だ。しかしながら万一、

安宅の関のここ一番という場面で、弁慶が、義経や舞台監督と一緒になって

雪見酒を始めたとしたら、観客は暴動を起こすだろう。

当たり前だ。……しかし、現にそれは起こった。


20世紀のはじめごろ、アメリカにテイラーという小父さんがいた。

「科学的管理法の父」と呼ばれている。この人は、ある意味では、

エジソン、アインシュタインよりも重大な影響を現代社会に残している。

テイラーのシステムは、第一次世界大戦下のアメリカにおいて、

工業生産力を飛躍的に高めることで、その有効性を見事に実証して見せた。

アメリカの威信は、いやが上にも高まった。この大成功は、

第二次世界大戦時にも、再び繰り返された。この相次ぐ成功の経験から、

科学的管理法を前提としたシステムは、生産・商業・行政などの

分野にかかわりなく、全世界へ、そして隅々までへと浸透していった。


このテイラーのシステムは、「人は人を科学的に管理できる」、ということを

根本原理にしている。しかも、魔法のような力を持っている。

たとえば、ハーバードで法学の勉強しかしてこなかったはずのケネディが、

このシステムの頂点に立って、「アメリカは1960年代のうちに月に人を送る」

と呪文を唱える。すると、あら不思議、アポロ11号は、1969年に

ちゃんと月に到達するのである。


この根本原理には、二つの必要条件があることに気付く。まず、

「人は科学的に管理する能力がある」、が一つ目。そして、二つ目は

「人は科学的に管理されうる」である。この二つのうち一つでも成り立たないと、

この根本原理は成り立たない。成り立たないとすれば、

この原理にもとづいて設計されたシステムは、いつかは機能不全におちいる。


ちょっと考えてみればわかる。小説もメロドラマも、いまだに健在だ。

人はココロを失っているわけではない。ココロがある限り、

人は生物学的なヒトなのだ。そのようなヒトであるなら、科学者になることは

できるかも知れないが、科学そのものになれるものではない。ましてや、

科学的に管理されて、唯々諾々としているはずもない。ゆえに、

どちらの条件も成り立っていない。しかし、何と!、成り立っていない

条件・原理を前提に、現在のシステム全てが設計されていた。


役者が大根なら頻繁に、名優でも時には、かならず間違いをしでかすが、

それを更に、舞台監督さえ見逃すことがありうる、ということだ。こんなとき、

このミスに気付くのは、もう観客しかいない。入場料を払っているのに、

という怒りはもっともだ。何とかしろと言って、座布団を投げたくもなる。

しかし、根本で設計を間違っている機械なのだ。いくら部品を交換しても、

ミスを根絶するまでの改良は期待できないだろう。


「人は人を科学的に管理できるとは限らない」、という思想で設計された

まったく新たなシステムを開発していくしかない、と思われるのだ。

だが、そのためには、100年近く時間を戻さなければならないし………さて。

私の蟹味噌頭では、もう限界だ。