<テバコラ 第19話>
☆「府」の起源 −幻の奈良府を求めて−☆ (2000/01/27)
「いっと、いちどう、にふ、よんじゅうさんけん」、小学校の社会科で、
呪文のように覚えさせられました。
特段の不思議も感じてきませんでしたが、最近に至り、霊峰富士にお住まいの
HAL仙人から、「府」の起源について重大な問題提起がなされました。
そういえば、よく考えたこともなく、疑問に思ったこともなかったことではあります。
問いかけは、
「かつて都(ミヤコ)があった奈良や滋賀が府でないのはなぜか」
というものです。
では、幻の奈良府、滋賀府を探す時間旅行に出発です。
○慶応3年(1867)10月14日
徳川慶喜、大政を奉還。
大政奉還以前は、日本国は、幕府の天領と諸大名の藩領だけから
出来あがっていました。
天領には、実在・架空をまじえ、多数の凶状持ちがはびこっていました。
(誰でも知っとるわい!)
○明治元年(1868)1月
新政府は、従来幕府の直轄領を天領と称していたのは 「言語道断」、
ただしこのたびは、「真ノ天領ニ相成候間、左様相心得ヘク」と宣言
鳥羽・伏見の戦いが始まりました。プロパガンダの一環として、
将軍ごときが「天」とはけしからん、天子様(天皇)こそ本家の天である、
ということを宣言したのですが、結論としては、天領の呼称はそのままです。
あんまり喧嘩になってないんでないかい?(北海道風に語尾を上げて)
○同・閏4月
府藩県三治を定め、鎮台を設けていたところは府・県と称し知事を置く
藩については、その旧藩主に支配をゆだね続ける
ここで鎮台と言っているのは、官軍側の野戦司令部のようなものです。
戊辰戦争の過程で、旧天領に、臨時に次々と置かれていったものです。
明治4年以降の本格的鎮台とは多少異なります。
藩は残したまま、旧天領(=新天領)だけに府県を置いたため、
府藩県三治制度と呼ばれるようです。
日本史の用語って、本当〜〜に難解ですね。
好きになれなかったし、点も取れなかった、マッタク……。
さて、ここで初めて「府」が登場してきました。
府と県の違いはというと、府は大都市および互市に置くとしています。
聞き慣れない言葉ですが、「互市」というのは国際交易市場のことで、
五開港場、二開市場が順次開かれていきます。
開港場 横浜、長崎、函館、兵庫、新潟
開市場 大阪、東京
これら7都市が「府」になります。
京都は? そうです、京都は、東京、大阪に並ぶ三大都市ということで、
最初から「府」扱いです。この時期には8府があったことになります。
なお、新潟府は、時に越後府とも呼ばれたようです。
(貿易を詠める) 百足らず 八十国人も 寄りつどい
物取り換ふる 心かしこき
○明治2年(1869)6月17日
版籍奉還、同時に旧藩主を知藩事に任命
(申し出なかった三十余藩は領地没収……結局はヤラセ?)
○明治4年(1871)7月14日
藩を廃し、1使3府302県を置く。
(これより府県二治制度となる)
○同・11月13日 県を統合、1使3府74県
ここで「使」といっているのは、もちろん、北海道開拓使です。
3府は、東京、京都、大阪です。
「いっし、さんぷ、ななじゅうよんけん」ですか。
○明治21年(1888) 12月28日
愛媛県から香川県が分離独立、現在の都道府県が出揃う
とうとう奈良府、滋賀府は見あたりませんでした。
日本史では広すぎたようですね。そこで、奈良史にズームインしてみます。
スタートの大政奉還は一緒です。
○慶応3年10月14日 大政奉還
○明治元年1月21日
天領だった奈良に大和鎮台設置
1月上旬の鳥羽・伏見の戦いの直後に、鎮台が置かれました。
奈良は、あの壬申の乱の折、大海人皇子(オオアマノミコ)が
滋賀・大津京から一旦逃げ込み、ここで勢力を挽回し、天下を取り、
天武天皇となったゆかりの地です。
神武天皇も源義経も後醍醐天皇も、権力闘争がこじれてくると、
奈良を足がかりにしようとします。
うまくいったり、失敗したりでしたが、明治新政府にとっても、戦略上、
絶対押さえておかなければならない要衝です。
○同・2月1日 大和鎮撫総督府と改称
○同・5月19日 はじめて奈良県を置く(旧天領のみ)
府藩県三治の奈良県バージョンです。ところが、
○同・7月29日 奈良県を「奈良府」と改称
何と!!何と!!まあ〜、奈良府は実在したのです。
幻の奈良府発見です。
しかし、HAL仙人さま、あなた様の霊能力っテバ、……
(しばし、ボーゼンとするテバ)
いやあ、今回のタイムトラベルは大成功でありました。
奈良が開港場、開市場ということは考えられませんから、
「大都市」該当ですね、きっと。
しかし、
○明治2年7月17日 ふたたび奈良県に復称
奈良府は1年弱の命でありました。
明治初頭の、朝令暮改振りのすさまじさの一端をかいま見ます。
それどころか、
○明治4年7月14日 廃藩置県、旧大和国内に15県
○明治9年4月18日 奈良県を堺県に合併
○明治14年2月7日 堺県を大阪府に合併
分割・吸収合併というリストラに遭遇し、奈良という県名すら姿を消すのです。
とうとう超大手・大阪府の一地方支店にされてしまいます。
この時代の奈良は、受難々々の連続でありました。
古くからの寺院や仏像などが、実に数多く残されていたのですが、
廃仏毀釈の嵐の中、興福寺の五重塔までが、燃料用(マキ)として
売りに出されたといいます。
堺県県令ナニガシに至っては、古美術品を、神戸を通じてこっそり・ごっそり
海外に売り飛ばし、一財産を築いた、などと噂されています。
現在、ボストンやロンドンなどに、日本古美術の一大コレクションがありますが、
某県令こそ、それらを築くにあたっての最大の貢献者だと言われています。
産業振興や民生安定に不可欠な道路も全然良くしてもらえません。
そこで、とうとう堪忍袋の緒が切れます。
○明治20年(1887年)11月4日 大阪府から独立、奈良県再設置
この時からちょうど100年後に、置県100年を記念して、シルクロード博覧会が
開催されることとなるでしょう。
滋賀府はとうとう見つかりませんでした。宿題?
(後記) おかげさまで、「幻」は邪馬台国ばかりではないことがわかりました
身近にあるもんですね
HAL仙人さま、楽しいお題、ありがとうございました
奈良の受難と言えば「タコの足は7本」という話があります
明石のタコが奈良に届くころには、足が7本になっていました
このため、奈良の人はタコの足は7本だと長く信じていたのです
パクられた足1本は、大阪でタコ焼きの材料になっていました
もっとも、奈良県南部の山岳地帯に行くと、この話は、
「タコの足は6本」ということになっているのですが
宮城県の鹿島台には互市(たがいち)という市が立つそうです
(蔭の声)テバの小学校では、確か「1都1道2府よんじゅうにけん」だったはず
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