<テバコラ 第18話>


☆真空はお好き?☆(2000/01/20)


真空管が好き、という人を、このごろ身辺によく見掛けるような気がする。

しかし、ちょっと待って下さい。ホンの400年ほど前なら、こういう方々は、

きっと片端から火あぶりになっていたはずだ。

ガリレオ・ガリレイが、地動説を唱えたために、そんな目に遭いそうになった

というあの時代だ。


「自然は真空を嫌う」という格言は、日本人の間でも有名だ。

総○府格言局のアンケート調査でも、成人男女のうち73%は、

「よく知っている」あるいは「聞いたことがある」と回答しているという。

実は、天動説も自然真空嫌悪説も、あの古代ギリシャ人、

アリストテレスの説なのだ。


アリストテレスは、まず「何もないことを唯一の根拠とする存在があり得るか」

と自問し、次に「そんなものはない、従って真空は存在しない」と自答した。

アリストテレスの自然観は、その後、中世ヨーロッパご当局に、

公認真理として採用された。それからというもの、太陽は地球の周りを回り始め、

真空管アンプなんかを好む輩は危険人物、という物騒なことになった。


インドで発明され、お隣のイスラム教徒にも重宝されていた「ゼロ(零)」が、

西欧世界に受け容れられたのは、非常に遅い時代のことである。

私見だが、これは、「何もないという数字があり得るか。ない。」と信じていた

せいではないだろうか。このために、紀元元年の前年は、紀元ゼロ年でなく、

紀元前1年とされてしまった。そのため、


   1−(−1)=1


という、とんでもない計算が、今でもまかり通っている。

(紀元ゼロ世紀も必要になるけど)


これに対し、「空」という考えは、東洋では太古から定着していたようだ。

インドのゼロもそうだが、孔子の同時代人である老子は、

道(タオ)は無であり、道は有(つまり万物)を創造したと言っている。

この思想を政治の分野に持ち込むと、「無為自然」という、

ヨーロッパ人には到底想像もつかない哲学が出てくる。

マキャベルリの政治哲学の奇々怪々さとは好対照をなしているが、

これも、西欧人は「何もしないことを唯一の目標とする政治があり得るか。

あるわけない。」と信じていたと考えれば、理解しやすい。


ところが、現代の宇宙論では、宇宙の卵であるビッグバンの火の玉は、

「真空」から生まれたとしている。素粒子のクォークに思い至ったゲルマンも、

老子の「無=道=万物」にヒントを得たという。

何と、森羅万象も我々も、真空の由緒正しい子孫なのだ。

老子が現代欧米の哲学・物理学を救った、とされるのもむべなるかなである。

なお、真空の存在を、ガラス管と水銀という比較的安上がりの装置を使った

実験で証明し、アリストテレス派のご当局に決定的なダメージを与えたのは、

ガリレイの忠実な弟子であり、後には盟友でもあった、あのトリチェリである。



(後記)「ブラームスはお好き?」、「ある微笑」、「悲しみよこんにちわ」……

    サガンもよく読んだけど、寡作のうえ、引退も早かったですね。

    愛読者のこと、ただの遊びだったのね、きっと。


    アリストテレスといえば、「薔薇の名前」は良かったです。

    もちろん映画の方です。

    俳優ショーン・コネリーの実力を、改めて認識させられました。