錬金術(3) 金・銀・銅・雑

(2003/01/09)


貨幣の材料のことである。どうも、金貨というものは、極めてレアであったらしい。

しかし貨幣というと、何故か金貨が思い浮かべられる。その原因はあった。

われわれが、その極めてレアな時代を体験していたのだ。それは、人類史上

2度目であり、グローバルには初めての時代であった。19世紀冒頭の英国に

始まる金本位制の時代である。これは世界の(帝国主義志向の)国家のお手本となり、

つい最近(1976年)の金ドル兌換廃止まで続いた。男子の本懐でこの真似をした

某国など、そのために経済がおかしくなり、とんでもない戦争に突入する原因の

一つになったとか。


歴史上の1度目はリディア王国である。この国は、紀元前数百年に小アジア(アナトリア)に

あった国で、自然金(エレクトラム=金と銀の天然合金)を多量に産した。このことは

ミダス王の有名な伝説(Golden Touch)を生んだ背景にもなっているらしい。

ともあれ、リディア王国では金貨が流通していたらしいが、それ以降には、大英帝国が

出現するまで、金を本位通貨とした国はなかったのだ。何故かというと簡単である。

人類がこれまでに獲得した金の総量が、自然金によるにせよ精錬によるにせよ、あまりにも

少なかったからなのだ。007ゴールドフィンガーで150億ドルの金塊を見た人は、

不思議に思うだろう。


ミダス王の憂鬱


実は、人類が獲得した金は、通算9万トンに過ぎないのだ。複雑な計算過程は省略

せざるを得ないが、これを60億人に配ると、ひとりあたり15グラム弱にしかならない。

グラム1400円したとしても、2万円/人ぐらいにしかならないのだ。今どきの子供のもらう

お年玉にもならないだろう。逆に、世界中の金を買い占めても、120兆円程度で済むのだ。

東洋の某経済大国では借金の足しにもならない。それでは何故、通貨というと金貨がイメージ

されるのだろう。それは多分、推測ですが、至高の貴金属という他に、少ないがゆえの

偏在性に価値があったのだろう。


偏在こそ価値である。そしてそれは、異なる国家間で、もっと言うなら異教徒同士の不信感に

満ちた取引でさえ威力を発揮した。ざっくりした話になるが、貨幣の素材とその用途の対応を、

ひと昔前に立ち戻って考えてみると、一般的には、


 金 → 国際通貨、異教徒間通貨

 銀 → 一国の本位通貨

 銅 → 庶民の本位通貨

 雑 → 庶民の日常通貨


となりそうだ。ここで「雑」について注釈しておきたい。テバが幼少のみぎり、陶貨というものを

見た記憶がある。陶土に緑の釉薬をかけたコインのようなもので、当然、すでに流通はして

いなかったのだが、不思議な美しさを感じた。そう、庶民の日常感覚ではこんなものでも

充分通貨になっていたのだ。雑貨の素材には、そのほか、鉄、真鍮、紙などもある。

本位通貨の世界でも、石、貝殻なんかの「雑」な素材がある。そういえば、今でも紙幣が

中央銀行の制式貨幣であり、コインは補助貨幣になっている。これは多分(多分が多いナ)、

兌換券時代の名残りなのだろう。


(ところで今回は、陶貨の復活を提案したい。これこそ究極の錬金術になるのではないだろうか。

唐三彩風とか景徳鎮焼とか浜田庄司作とかあれば、随分世の中が楽しくなりそうだ、と思う)


閑話休題、錬金術の歴史の背後には、この、金の偏在という問題があったのだ。

若き日のショーン・コネリー

疎ボロス(Uroboros)