錬金術(5) 黄金のガリア

(2003/02/14)


ケルト人の支配地域であったころのガリアは、実に豊富な金の産地でもあったらしい。

大量の天然金が、それこそ何の苦労もなく入手できる土地だったという。ピレネーや

アルプスといった山塊から、渓流によって削り出された金が、あるいは山麓に塊状で

埋もれたり、あるいは更に大河に押し出され、砂金となって堆積していたという。こうした

天然金は、極めて簡単に発見・採取することができたようだ。考えてみると、鉄の融点

というものは1500℃台である。たとえ「たたら」でも最低1200℃の温度を扱う。一方、

金の融点はわずか1064℃でしかない。とすると、時代が鉄器時代まで来ていれば、

金を融解するぐらいの温度は、すでに使いこなされていたことになる。実際、ある部族では

金の採取は老人・女に任(まか)される程度の仕事だったという。手のひら大やソラ豆大の

金塊といえども、地下50pぐらいのところから難なく掘り出された。砂金の場合が面白い。

河床に羊の毛皮を放置しておくと、羊毛の隙間にはびっしりと金が付着する。金の羊毛を

はさみで刈り取り、焚き火で焼き、その灰を坩堝に入れるだけで金になる。この羊毛法は

コーカサス地方で広く行われていたらしく、有名なアルゴノート(アルゴー号の乗組員)と

金羊毛の伝説を生み出したもとにもなっているという。


紀元前10世紀ごろから始まり、延々とガリアの採金は続けられた。ケルト人は、大変に

金の装飾品が好きであった。「トルク」と呼ばれる金の首輪は、勇者のしるしである。

数百グラムの金が、惜しげもなく使われている。その他、王冠、腕輪、耳飾り、フィブラ

(マント用などの大型ピン)が造られている。埋葬用には金無垢のブーツ、果ては巨大な

鉄器・青銅器にまで金メッキをほどこした。アルプスの南方に広がる地中海世界、この頃の

先進文明地帯であるところのギリシャ、エトルリアやローマなどからしても、まさに垂涎の

黄金伝説郷にほかならない。


ケルトの黄金のトルク


ところがこのケルトが、アルプスの南へ大規模な侵攻をするのである。一説三十万人

ともいう。南方の高度な文明社会へのあこがれもあったことだろう。しかし、最大の

目的のひとつは「金を求めて」であったらしいのである。ローマを侵略したときには、

市民一人あたりにつき300グラム強の身代「金塊」を取り上げたという。ギリシャでは、

あろうことか、アポロンの神殿として最大の聖地であったあのデルフォイに押し寄せ、

献納されていた金を掠奪した。アポロンの怒りは、末永くこの民族に祟ることになる。


何故か? 何故、持てるものが持てないものから奪うのか? それはケルトの金の使い方

に原因があったようなのである。まず、彼らは通貨等の交換手段としては、金を使うことが

なかった。なぜなら交換経済など未発達で、通貨使用の必要性はなかったからである。

その一方で問題だったのは、装身具、什器に使用するより多量の金を、彼らは退蔵した

のである。退蔵先? 神殿、あるいは聖域とされる湖・池などである。インゴットのまま、

無雑作に、神殿には積み上げ、湖・池には放り込んだという。そして、信仰上の理由から、

それらの金には決して手を付けなかった。これではたちまち金地金不足に見舞われる。

黄金のガリアは深刻な金不足となり、大した金産地ではなかったアルプスの南にまで、

供給源を求めるようになってしまったのである。このことは、将来、恐ろしいしっぺ返しを

ガリアの地に招く。それにしても、今日においてすら、フランスやドイツは、退蔵用金の

需要大国だというあたり、これは何となく興味深い。風土なのかな?

ローマを遠望するケルト人