錬金術(2) メランコリア (2002/12/30) |
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錬金術師は反抗者である。中世の秋、人々が「死を想え(メメント・モリ)」という 大合唱を唱えている中、決然として、永遠なるもの、不滅なるもの、不死なるものを 追求していたのだ。当時の知識・技術の状況を考えると、恐るべき蛮勇である。 大いなる悲劇は、大いなる喜劇で幕を閉じることもある。あのラ・マンチャの騎士、 ドン・キホーテのように。これが一般的な世間の評価である。しかし「時代を超えて」 考えてみよう。その当時、世が、あげて暗い奈落に落ちていく予感に震えているとき、 「違う!」 と言って立ち上がる勇気を持った求道者、これも中世が生んだ人間像の ひとつではないだろうか。
ところが別の意味で、錬金術師は憂鬱なのである。俗人の評価などは気にはならない。 究極の知識には接近しつつある。真正な理解にも、もう一息で到達できるのだ。問題は その内容にあった。「永遠」と「無限」という言葉がちりばめられていたのであった。 錬金術師も人間である以上、「定命」を持った「有限」の存在である。このように条件を 欠く存在が、なぜ、どうして真正な理解に基づく、大いなる知識を実践できるのだろうか。 錬金術師の憂鬱は、無知な大衆からは、単なる精神の病(やまい)としか見えない。 根幹的な本質に迫ろうとするときの大いなる悲劇は、傍目には大いなる喜劇だった。 どのようにすれば、宇宙がすっぽり入る圧力鍋が手にはいるのだろう。いかにすれば、 自分が生まれる以前の全ての時間と、自分が死んだ後の全ての時間を、生きることが できるのだろう。 だが、無限の空間と時間、これが手に入らないとすれば、人間は終わりなのだろうか。 とすれば、人間には生きて行くに値する「こと」がないのだろうか。「生」は「知」に比し、 それほど無価値なものなのだろうか。そうではないと思われる。改革なくしても、成長は あるのではないだろうか。人類の希望の正統なる後継者、これが錬金術師なのでは? 痛みを越えなければならない。そうしなければ、大いなる癒しには、たどりつかない。 |