宿りの座 投稿者:テバ 投稿日:2006/03/08(Wed) 07:59 No.725 | |
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従軍司祭は、十字架の丘に至っても神の声が聞こえず、従って自分は信仰心を失ってしまったようだと告白するバリアンに、額(ひたい)と左胸(心臓ですね)を指し示しつつ、「神の望む"善"というものは、こことここにある」と説きます。
神なき民は、と考えさせられてしまいました。無神論者の頭と心は空虚なのでしょうか。いえいえそうではありませぬ。神を忘れた人間にも、何かが宿っているはずです。そうして、それは時(とき)だろうな、と思うに至りました。あえて言うならば、クロノス神ということになります。この神の方が間違いなく老舗です。
大部分の現代人は左手首にもこの神を宿らせています。今では千円もだせば、かなり正確な腕時計が手に入ります。この神々は本当に厄介です。頭と心と器械、この三つの時は、その遅速、リズム、支配力等々、同一人の中で葛藤しているのです。神々の葛藤を内在させた人々が、また互いに葛藤しています。
入院などをしてみると良くわかります。器械の時が最初に遅くなり始め、ついには存在を止めてしまいます。次には頭の時が同じ道を辿ります。最期には「心の時」だけになっていることが実感されます。娑婆に戻ると、この逆の過程が起こります。心の時は影が薄くなり、頭の時もついには腕時計に負けてしまいます。
私たちは時空間の一点ですから、それをおしゃれに表現すると、
φ(x,y,z,t)
です。しかし、現代の人間は、どうやら、
φ(x,y,z,t1,t2,t3)
となってしまっているようです。t1,t2,t3は独立パラメータです。時は神々なり。神々は、ここと、ここと、ここに宿る。大変なことになっています・・・・・ありとある時間よ、停まれ! まず、腕時計から捨てましょう。
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