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☆★☆- ホンの幕間 -☆★☆

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[ 最後の心配 ]
「そんなわけで王朝が代わるたびに前代の立派な建造物をどんどん焼いてしまうものだから、中国は古い国のわりには古い建物がない。建物だけ見ると中国より日本のほうがよっぽど古い国のように見えるのはそういうわけである。
 新宮殿の造営を新王朝創建の目印にするのは、中華人民共和国の人民大会堂にいたるまで綿々としてつづいている・・・」
   【高島俊男「中国の大盗賊・完全版」講談社現代新書】

ということだそうです。ただし例外がありました。

「中国歴代の王朝で、前王朝の宮殿をそのまま使ったのは、満州族の清朝だけである。満州人は日本人と同じく弱●民族でしみっ●れだから、明の紫禁城をありがたく拝借したのである」
   【伏せ字はテバによる】

そうだったのです。「ラストエンペラー」に見るあの壮麗な紫禁城の即位式典でさえ、大碩学の目から見ると「しみったれ」ていたのでした。日本についても、

「日本の明治の天皇が、維新で天下を取りながら徳川将軍の旧宅に住みついたのなんぞは、中国人から見れば、ずいぶん不景気な話なのである。中国人なら江戸城は燃やしてしまって丸の内あたりに新宮殿を造営するところだ」

と述べています。

赤瀬川理論の「世界二大貧乏性発生地域・極東版」の背景には、民族的なものがあったわけですね。同じモンゴロイドBでも、蒙古族や鮮卑族は貧乏性ではありません。フビライや煬帝の事蹟を見ればわかります。ただひとり、ツングース系というかタタール(韃靼)系の部族だけが、奇跡的に貧乏性遺伝子を獲得したようなのです。中国史学者には申し訳ないけれど、これは、少なくとも、国民にとっては有り難いことでした。

この事件は、モンゴロイドAの方に「江南のイブ」と呼ばれる遺伝子が発生したことに匹敵する、民族形成史上の大事件です。江南のイブの子孫(母系遺伝で日本人に多い)はアルコール分解酵素を持たないそうです。X遺伝子ですから、この形質は男女を問わずにどんどん伝わります。日本人の大部分がコーカソイド(いわゆる白人で、イスラムも含む)などに較べ酒が弱いというのは、X染色体の問題である、と遺伝学的には説明されているのです。

貧乏性に戻ります。現在白熱している「Y染色体継承問題」です。この貧乏性遺伝子は、X・Yいずれの染色体上にあるのでしょうか。もしも、この大散財抑制遺伝子ともいうべきものがY染色体上にしかないとすると、これは男系の子孫にしか伝わりません。すると女帝問題は将来に大きな課題を残すのです。皆様よくご存じの中国史上唯一の女帝・則天武后のそっくりさんが出てくる可能性が残るのです。

これを検証する手段は、偉大なる赤瀬川理論に既に含まれていました。つまり、女系皇族(あるいは元皇族の女子)は台所で輪ゴム集めをしているのかどうかを確認するのです。多少の困難はあるかも知れませんが、弊国の未来の安定性がかかった重要な調査であります。この検証作業を終えてから典範改定を議論しても遅くはないと思うのです。更に、王室が酒に弱くて貧乏性であるなら、勤勉・勤倹な国民性も維持されることでしょう。
2005/11/26(Sat) 晴れ


[ ズアヴ ]
凱旋門に近いセーヌ川にかかるアルマ橋の橋脚に150年近く立ちつくしている彫刻群があります。このうちの一つズアヴ(Zouave)と呼ばれています。他に3つある彫刻とともに、クリミア戦争の緒戦・アルマ川の戦いで、対ロシア戦勝に功績あった兵種のひとつ、ということでここに飾られました。ズアヴというのは個人名ではなく、アルジェリアの山岳地帯に住むベルベル族のある支族に由来した兵団名です。アルジェリアで徴兵されたベルベル族がクリミアで戦ったのです。そう、つまり近代外人部隊の第一号なのでした。

[ズアヴU]

この外人部隊の創設は1831年とされています。これに決裁を与えたのは王政復古期の後半、多分立憲君主制を構想していたルイ・フィリップです。もちろん正史の上では、フランスには立憲君主制はありませんでした。とはいえ、この本当の意味でのフランス最後の王様は、英国型の政治制度に憧れていた風があります。ズアヴのモデルになったのは、その少し前の時代に、英国がネパールで採用したグルカ兵制度ではないかと思われるところがあります。

ルイ・フィリップの治世は18年間も続きましたし、その後もあまり悪くは言われていないようです。時代の風に敏感だったのでしょうね。その時代とは、そう、帝国主義の時代です。

[ズアヴの受難]

この150年の間、セーヌ川は何回もの洪水を経験しています。そのうちでも最大であったのは1910年1月のものです。この時は、ズアヴの肩のあたりまで水位が上がってきました。本当に、もう少しで溺れるところだったのです。その時、アルマ橋は見物客で一杯でした。

[1910年1月のパリっ子]

モンスーン地帯とは正反対に、この川が大氾濫するのはいつも冬季でした。このごろは地球温暖化とかの影響で、季節がズレてくるのではないかなどと、真剣に心配している秀才研究者クンもいるそうです。でも、平均的なパリジャンやパリジェンヌは、そんな心配とは無関係に人生を楽しんでいます。

1910年1月の洪水のころは、写真術・写真機が広く普及を始めていた時代でした。そこに珍しい市街地氾濫などが起こったのですから、放って置くわけがありません。みんなでザバザバと水の中に繰り出します。思い思いのポーズを取って、しっかりとカメラ目線で記念撮影ということになるのです。

ズアヴの方は、もう少しで溺れそうだったというのに・・・

[かくてズアヴは、・・・]

50年間のセーヌ川の洪水を忠実に記録し続けてきました。「ズアヴの腰帯の上のところまで水が来ていたよ」とかいう形で記憶されます。市民が見張り役ですから、記録し損なうということがない、作動確実な現代のナイロメーターです。アルマ橋の設計者たちが考えてもいなかった役割を果たしてきたのです。

しかしズアヴは心配しています。現在の河岸には、1910年当時にはなかったメトロや地下駐車場といったものがゴマンとあります。ルーブルなどの美術品収蔵庫も地下にあるようです。一旦1910年クラスの洪水が起こってセーヌが氾濫したら、経済的・文化的損失は量り知れないものになるのではないでしょうか。

平均的なパリっ子は、全然気にかけていないようですが。
2005/11/24(Thr) 晴れ


[ 狙い目 ? ]
フェルメール本人が寡作だったのかどうか、テバは美術史には昏いので、その辺の評価は知りません。真贋判定の問題もあるでしょう。しかし、世界中に残されている作品数といえば、どうも30点以上、せいぜい40点未満のようです。このような画家の作品なら、何かの折りにコマメに狙い撃ちをして、実物を見て回る値打ちがありそうです。

「フェルメールなら相当な数、実物を見てきんだけど、・・・」

胸を張ってこう言えますものね。たとえば、メトロポリタンだけでも5点ぐらいはあるようです。どうです? やってみませんか? ピカソあたりになると、こうはいきません。ごく一部の作品を追いかけるだけで、あっという間に破産するでしょう。
2005/11/20(Sun) 晴れ


[ オマハるのかミシェるのか、それが問題だった ]
まだまだ土産話シリーズです。飽きた方は、以下省略してください。

ナントからル・アーブルへの道中では、どこに立ち寄るかという問題が生じました。とにかくバスなので、多少の融通はつけられるわけです。しかし1ヶ所だけよ、ということでした。そこで候補地を挙げ始めます。もちろん、大多数はあの世界文化遺産たるモン・サン・ミシェルを希望するわけです。ただ一人、老師のみが「オマハビーチに寄ろう」と言い出しました。

ところで、ほとんどのメンバーが「オマハビーチって何?」状態なのです。そこでテバが親切に解説してあげます。あの「プライベート・ライアン」という映画の冒頭で延々とやっていた殺し合いシーンの舞台だよ、と教えてあげたのです。映画を見たとかノベルを読んだとかいう人間が一人二人いたでしょうか。あとは「そんな映画は全然知らん」という状態でした。

今は何があるんですか、と質問する勇気ある若者がいました。N君(中立的立場)が、「そうですね、石でできた記念碑と、あとは普通の砂浜ですね」。何で日本から6泊もかけてやって来た挙げ句、そんなものを見に行かなきゃいかんのだ、という思いが皆様の胸をよぎったことだと推測されます。しかし老師は唯一の常任理事です。「Veto」を持ってます。

ここで総会メンバーの数をご紹介しますと、全員で11名です。勢力的には、オマハビーチ派1名、モン・サン・ミシェル派9名でした。テバは発言を控えましたが、本当はオートヴィル・ラ・ギシャールに寄ってほしかったのですが、これはファシズム撲滅作戦よりも理由の説明が難しいので沈黙を守りました。そのため、何となく調整担当の非常任理事になってしまいました。

そこで運転手さんに振りました。技術的問題にすり替えてしまうわけです。この2案のそれぞれの所要時間ですね。ホテルに何時に入れるのか、ということです。オマハ案では9時を過ぎるだろうということです。モンサン案なら7時半ぐらい、ということでした。その翌日も強行軍ですから、老師も折れました。史上最大の作戦は、ついに採択されなかったのです。

そうしたわけで、老師とテバの意に反して、観光みたいになってしまったのでした。

http://www.christusrex.org/www2/berry/f195r.html

[行ってみたら]

世界を二分しかねない総会の議論を経て、とうとう行ってしまったわけです。が、何と、アスファルト舗装の海中道路があったのです。完全に陸続きになっているわけです。大天使ミシェルとドラゴン・ルージュの黙示録的闘争もありませんでした。平和なお土産屋さんが沢山・沢山ありました。なお、ここで買ったクッキーは、結構安くておいしかったことを申し添えておきます。

[工学系的忠告]

N君に忠告してあげました。彼はリセー(中学ぐらい?)のころ日本から来て、以来、26年間住み着いてしまった根っからのフランスファンです。同行のY君が「結構日本車が走ってるね」と言ったところ、血相を変えて「全然少数派ですよ、国産車が圧倒的ですよ。EUではフランスしか車を造っていませんからね」と反駁するようなヒトです。

テバの忠告は、「観光収入も大切だろうけれど、この海中道路は全てを台無しするよ」というものでした。N君は素直にうなずいていました。彼も、この海中道路は遠からず撤去されるのではないか、という意見でした。大きな論争が起こっているそうです。何といっても「岬の修道院」では文化遺産失格になるはずですからね。
2005/11/19(Sat) 晴れ


[ アンボワーズ城の石垣 ]
視察経路上にあった5つのシャトーに立ち寄りました(わざわざ行ったわけではありません)。大部分がルネサンス様式以降の時代に造られたり改装を受けたりしたもので、あまり面白くは感じませんでした。何といってもお城は戦国時代の産物です。それも強力な大砲が実用化してしまうと防御力はなくなってしまうので、ルネサンス時代以前にこそ華だったのです。防御力がないシャトーは、単なる「やかた」ということで、居住性を重視して、壁は薄くなり窓は大きくなります。

今回古い時代の面影を最も残していたのは、アンボワーズ城の石垣でした。これを基礎代わりにして建てられている居館や教会は、すでに15世紀後半の建築ということでした。大部分がルネサンス風で、屋根のあたりにゴシックの面影を残します。この石垣が築かれたばかりの時代には、一朝事ある場合、シャトーは街全体の人畜の避難所になっていたはずです。大砲の登場で主戦場は平地に移りました。そうしてシャトーは、殿様と家来の住居兼宴会場になったわけです。

[アンボワーズの国宝]

フランソワ1世は、晩年に不遇をかこっていたレオナルド・ダ・ビンチをアンボワーズに招聘します。お城に近いところの「クルー(Clos)」と呼ばれる館を与えました。ここでダ・ビンチは1519年に亡くなるわけです。最後まで手放さなかった三点の絵画をフランソワに託します。いずれも国宝級ですが、その中の一点がいわゆる「モナ・リザ」です。

[クルーの寝台]

そのダ・ビンチの臨終の寝台が残されていました。500年前のものです。そばに恰幅の良いおじさんがいて、凝っと見入っています。よくよく見ると、私たちのバスの運転手さんでした。お城にはよく観光客を連れて行くんだけど、パリからの日帰りなのでクルー(彼はパリっ子なので「クロー」と発音)まで来る余裕がないことが多いんだ、とのことでした。
2005/11/03(Thr) 晴れ


[ センス・オブ・コミュニケーション ]
今回の旅には「こいつらが日本語をダメにした」という赤瀬川・ねじめ・南三氏鼎談の文庫を持参しました。どこから読み始めてどこで寝てしまっても良い、次の日には内容を忘れている、軽い(グラム数のこと)、どこかのホテルに置き忘れても損した気にならない等々、まあ、これだけの条件を全て備えた本というものはあまりありません。その意味では、芥川賞、直木賞、雑画家の三大大家(「おおや」ではなく「たいか」)揃い踏みのこの本、選定に誤りはありませんでした。

その中に、赤瀬川理論らしいのですが「貧乏性」の話が出ていました。世界的に見て貧乏性が発生する地域は日本とドイツぐらいであるとか、そこの人々は貧乏ゆすりをしたり台所で輪ゴムを集めたりする特徴があるとか、ということのようです。ブロアの宿では、もう夜も遅いし疲れていたので、宿屋のレストランで集団晩飯しました。少々暑かったので、持参の扇子でパタパタやっていたために、隣席で食事していた老夫婦の親爺のほうの注意を惹いてしまいました。

いきなりやってきて「お前はチャイニーズか、コリアンか、ベトナミーズか ?」と訊くわけです。明らかなドイツ訛りです。そこで若干話し込んだのですが、当然、何語かわからないウルトラ・リンガルな遣り取りになってしまいました。第二語にてギョーテ、ハイネに憧れし日々今いずこ、です。で翌朝、朝飯を済ませてロビーでチェックアウトしていたところ、この親爺が奥様を伴なって降りてきました。問うて曰く「アイネ・ナハト ? !」、この意味は良く判りました。知り合ったばかりなのに、ね。

「ウィ、マルーズモン !」と応えたら、ご夫妻で肩をすくめておられました。貧乏性のイチニを争ったら、日本が勝ちますね、きっと。それと、折角コミュニケーションが芽生えたうえに奥様がおられたのに、ドイツの台所における輪ゴムコレクション事情を聞き損なってしまったのでした。勿体なかった ・・・ って、また貧乏性ですね。ちなみにホテルは有名な「ノボテル(Novotel)」という安宿です。健康・清潔・廉価を売りにしているようで、あの辺では、長期滞在型ホテルの代表格のようでした。
2005/11/01(Tue) 晴れ

My Diary Version 1.21
[ 管理者:テバ 著作:じゃわ 画像:牛飼い ]