特別寄稿 ★ジンカガーラ(源河川)の謎★

                      by T.頭光

             
(2001/08/08)



ジンカガーラにリュウキュウアユが遡上する季節を迎えた。

ある日、釣り好きの上司からメモを渡され「この唄のメロディーが知りたいのだが、
分かるだろうか?」と聞かれた。何でも、船上で他の人は皆釣れているのに
自分だけが当たりもなく、寂しい思いが続いていた時期らしいが、ふと、
傍にあった冊子(沖縄のわらべ歌)を拾い読みしていたら、それが載っていた
ということである。

そのメモには

 源河(じんか)ガーラぬ  ターイユグワァーたや
 潮口(うすぐち)うりとぅてぃ
 マクブならなら  タマンならなら
 いゃーがや  イリキ(鱗)ぬぐまさぬ
 マクブんならんさ  タマンんならんさ
 どぅきなり  どぅきなり

と書かれていた。

ジンカガーラと聞いて、私はすぐリュウキュウアユ種苗センターを思い出し、
あそこに行けば何とかなると考え、二つ返事でその調査を請け負うことにした。
翌日、センターのSさんに連絡を取ると、「その唄は源河の年寄りがよく歌っていた、
自分も聞いたことがある」、「丁度、来週の日曜日にアブシ(畦)バレーがあり、
区民が集まるので、そこに来たら歌ってくれる人は沢山いますよ」との、
もってこいの返事である。この種の安易な展開には、困難が付きものだな
と思いつつも、「それではその時に行くからよろしく」と依頼した。

さて、翌週末になると、台風1号の影響で雲行きが怪しくなってきた。天気予報
によると、日曜日は雨である。これはまずいと思い、台風でアブシバレーが
中止になる前にと考え、土曜日の昼頃に源河へ向かった。午後4時頃に
種苗センターに着き、誰か来るだろうとそこで待つことにした。部屋で待ちながら、
上司のメモを何度も読み返していると、「なぜ昔、アユの特産地であった源河川で、
ターイユグワァーなのか?なぜアユではないのか?」との疑問が湧き、色々思案
するのだが解明出来ない。考えながら大分待っていたが、人の来る気配もなく、
謎の解明も出来そうにないため、取りあえず人の居そうな公民館に行ってみる
ことにした。

公民館前の広場では、区の青年達が車座になり、今まさに酒盛りを始める
ところであった。センターのSさんの姿も、その中にある。彼らは、私の予想に
反して、台風にもかかわらず明日のアブシバレーは出来ると見込んで準備をし、
それを終えての慰労会であった。早速、車から降り、右手に泡盛の一升瓶を持ち、
左手にカセットレコーダーを抱えて、その仲間に加わることにした。

そして、Sさんの紹介で、メモを見せながら、歌ってくれる人を探した。しかし
「聞いたことはあるのだが、節は知らない」の返事で、誰も歌ってくれない。
その内「あのオジーなら歌えるのではないか」との声が上がった。そこで、
売店の裏で大工仕事をしているオジーに会いに行った。オジーは
「わんねぇーわからんしが」と言いつつも

 ジンカガーラぬ  アユぬくわぁーなち  潮口うりとぅてぃ

と、さわりだけを歌ってくれたが、照れ笑いを浮かべながら「あとーわからん」
と投げてしまった。何とか思い出して歌ってもらおうと御願いしたが、
拒否されてしまった。しかし、収穫はあった。それは、私が疑問に思っていた
「ターイユグワァーたや」のところを「アユぬくわぁなち」(アユの子供が産まれて)
と歌っており、やはり源河川はアユだ、これが正しい、と謎が解けたかに思われた。
それからまた飲み、獲り立てのタコ刺しを食いながら興じていると、
源河小中学校のPTA会長が古典音楽をやっている人を紹介してくれるという。

会長の運転する4WD車に乗って、その人の自宅に行った。その人は三味線を
弾き、そして、その唄にまつわる源河の昔の話を語ってくれた。曰く、「源河村は、
昔は川の右岸側が大宜味間切で左岸側が羽地間切であり、左岸の集落から
ノロ(神に仕える女)が、右岸の集落からウペーフー(神に仕える男、但しノロの
使い)が出ていた。この唄はそのウペーフーが歌ったと言われているが、
詳細については謎である」。曰く、「この唄は、何かの唄の囃子詞として歌われて
いたと思われる。その唄が何だったかは定かでない。羽地口説、十番口説、
四季口説などが考えられる」。曰く、「この唄を知っている人はもう源河には
居ないのではないか、今の60代の人達の父か祖父の代に、毛遊び(もーあしび)
などで、かけ言葉、遊び言葉として使われていたようだ」。自分も節はよく
分からないとのことで、またもや空しく公民館に引き上げることになった。

戻って酔客状態の皆さんに状況を説明すると、「ウペーフーまでいくと源河の
歴史を調べないと分からない、これは奥が深い」、「こんな古い唄は区として
残すことを考えないといけない」など談論風発で、挙げ句の果てにSさんまでもが、
「丁度良い機会だから、ぜひ調べて教えてくれ」と言う。どうにかして収束させたい
と考えている私の意に反し、議論は限りなく深く拡大する方向に進んでいく。

「私はこの唄のメロディーさえ分かれば、後はどうでもよいのだが」と思いつつも、
親切に面倒をみてくれる源河の皆さんの人情には、心を打たれるものがあり、
ついつい話がはずみ、酒もすすんでしまう。ある人は、羽地口説(くどぅち)、
十番口説のテープを自宅から持ってきて解説をしてくれた。またある人は、
川の上流のオーシッタイで喫茶店を開いているので、是非来てくれと言う。

そんな中で、「川側の山羊料理店の小母さんが歌っているのを聞いたことがある」
との有力情報が入り、今度は間違いない、と皆でそこへ行くことにした。いよいよ
唄が聞けると喜んでその店に行ってみると、小母さんは風邪を引いて寝込んで
いる。是非にと御願いして店に出て来て頂き、気付けに泡盛を飲ませ、唄を
歌ってもらう。歌った詩はメモの通りであった。

待ちに待った唄にホットしつつも、「ターイユグワァーたやのところはアユぬくわぁ
なちではないですか?」と、素直に疑問をぶつけると、「私が父から習ったのは
今歌った通りだ」と、頭が痛いのか、ぶっきらぼうな言葉が返ってきた。と同時に
解決したと思っていた謎がまた頭をもたげてきた。小母さんの、飲むほどに
滑らかになる咽で5回程歌ってもらい、それを録音し、目的を達して帰る頃には
12時を回っていた。

 翌々日に、録音したテープを上司に届け、私の役目はそれで終わるはず
であった。ところが、その日から、ターイユなのかアユなのかの解明が、
まだ済んでいないとの思いが頭の片隅に残り、夏の夜の暑さも手伝って
眠れない日が続いた。そんなある夜、ハタッと「ターイユは潮口に下りるのか
どうか?」、「ターイユは塩分に弱いのではないか?」の疑問が頭に浮かび、
この点が分かればターイユなのかアユなのかの決着はつくのではないか。
何故なら、ターイユが海に下りなければ永遠にマクブやタマンを見ることも
出会うこともないはずだ、と遅ればせながら気づいた。

早速、琉球大学のS教授に連絡を取り、教えを請うことにした。先生の回答は、
「ターイユは純淡水魚であり、塩分には非常に弱い。それにターイユの鱗は
体長に比べて大きいと判断される」であった。そして、やはりこれはターイユ
ではなくアユだ、との結論に至り、謎を解明した訳ではないが、一応それで
納得することが出来た。

そこでこの唄を私流に訳すると「源河川で、産み落とされたリュウキュウアユの
子供達は、下流に流され河口付近の海で育つ、そこで大きな魚を見てマクブに
なろうかタマンなろうかと考え努力するが、お前らは、鱗が小さくて、マクブにも
タマンにもなりゃせん、どきなどきなと海の大魚に言われ、結局は自分の
生まれた故郷の川に帰って行った」である。

これをわらべ歌とみた場合、この唄を通して子供達に教えることとしては、
直接的には「アユは何故、川と海を回遊するようになったのか」であり、
何らかの比喩を含んでいるとすれば、「人は広い世間に出てもいつかは
故郷に帰るもの」或いは「人には持って生まれた力量があり、結局は
納まる所に納まるもの」と一応の解釈をした。

しかし、後日、この解釈で自分自身は納得できたということを、かの太公望に
報告すると、「この唄は、そんな簡単な話ではなく、もっと歴史的な深い意味を
含んでいるのではないか?」と言う。この唄を、ウペーフーがノロを対象として、
「イリキぬぐまさぬ どぅきなり どぅきなり」と強烈な揶揄を込めて歌ったとしたら
どうだろう。そこには、大宜味間切と羽地間切の対立、ノロとウペーフーを巡る
権力闘争の構図が背景として浮かび上がってくるのでは、との見解を示した。

「それはもしかしたら、リュウキュウアユを巡る漁業権の争いではなかったろうか」
と考える私の頭は、またまた混乱に陥り、謎が謎を呼ぶ世界へと誘われていく。

それにしてもジンカガーラの謎は、その淵の如く深く、水面の如く広がっていく。
それを解明するには、リュウキュウアユの復元と同じ様に、多大な労力と時間が
必要となるが、早めに手を打てば解明の糸口は残されているかもしれない。(完)


編集者註

アブシバレー(畦払い)
 あぜ道払いのことで、村中総出で畦を固め、ネズミや害虫を駆除する
 四月(旧暦)の戌の日を選んで行われる
 海に近い部落では、海上にネズミやイナゴなどを流す
 併せてハーレー(競漕)を行う所もあるようだが、「払い」に懸ける意か

マクブ

タマン