★風に吹かれて★
             
(2000/09/30)



旧暦九月七日は、島をあげて「かじまやー」のお祭りです。

「風車祭」という字をあてたりするようです。数え年で九十七歳、

あるいは九十八歳の長寿の慶賀ですが、この歳のお年寄りに

風車を持たせ、赤い車に乗せ、村の中を練り歩きます。車は、

最近では、赤いオープンのスポーツカーのこともあるようです。

本土で勤めている孫などは、一週間くらいの休暇を取って

駆けつけてきます。


かじまやーのパレードには、重要なチェックポイントがあります。

七つの橋と七つの辻です。七つの橋を渡り、七つの辻を横切ら

なければならないのです。一説では、十字路のことを「かじまやー」

ということから、お祝いの名前が生じたとも言います。しかしこの説には、

若干、居心地の悪いものを感じます。やはり、風と風車、これほど

この島のお年寄りに、似合うものはないような気がします。


九十七歳なのか、九十八歳なのか。地元の人たちが議論を始めると、

なかなか決着が付きません。侃々諤々、果てしない議論が続きます。

自分の村では……、いいや自分のバアちゃんの時には……、

そばで聴いていても、飽きることがありません。九月七日に対し、

九月九日に祝う所もあるようです。そもそもの起源に、地域による

微妙な差があるのかもしれませんが、ここで、テバは九十八歳説を

採ります。そのヒントは、七つの橋と七つの辻です。


人生は旅のようなものです。旅というものは、人間の原始的・集団的

記憶では、決して楽しいものではありません。松尾芭蕉が奥の細道に

旅立ったのは、物見遊山のためではなく、自らの生涯の課題、俳諧の

確立という、困難な目標を達成するためでした。旅は、危険なものであり、

命がけのものだったのです。人の一生がもっと困難だった時代、

人生と旅は全く同一視されていました。


最も危険な場所、それは言うまでもなく、異界との接触が起こる場所です。

それが橋と辻です。橋は、川という天然の境界を、無理矢理に押し渡ります。

その向こうに何があるのか、そこから何が来るのか、誰にもわかりません。

橋梁を架ける技能者は、同時に異能者でもあり、常人とは別の世界に

属していました。西洋でも、橋の上には悪魔がいたり、悪魔が橋を架けたり

しています。


辻についても同様です。逢魔ヶ辻、という言葉が示すように、辻は日常世界と

異界との、交錯点なのです。辻は、道というものが一筋のものではなく、

網状に広がっているものであり、この蜘蛛の糸を辿って、思わぬ方向から

思わぬものがやってくる、ということの象徴なのです。思わぬもの、

それは福の神ということもありますが、多くの場合、厄災です。


七つの橋と七つの辻、ここの「七」は、ある種の神聖数であり、「十分に多くの」

の意でもあります。世界の創造に要した日数であり、楠正成が「七生報国」、

すなわち幾たびでも、と誓った数でもあります。七つの橋を七回渡り、七つの辻を

七回横切ります。数知れない危難を乗り越えて達した歳は、


   7×7+7×7=98


そうです、九十八歳なのです。

(ちなみに、この理論を提出することで、その場の97・98論争は、

一応の決着を見ました。地元の方々も、おおいに納得したようです。)


それにしても、こんな風に、しち面倒くさく考えちゃいけませんね。

こちらの人たちは、かじまやーのお年寄りに、「長い間ご苦労様でした。

これからは風に回る風車のように、気楽にお過ごしください。」という気持ちで、

お祝いをするらしいのですから。


風車】 絶対「ふうしゃ」と読まないでください。お年寄りがかわいそうです。

      (某国営放送支局のアナは、ふうしゃ、ふうしゃと言ってたけど)




かじまやー異聞
             (2000/10/04)


97歳か98歳か、で大きな論争を呼んだ「かじまやー」であるが、テバの

深遠な理論により、一応の決着を見るに至った……と、思いきや、

世の中には、ガリレオみたいな性格の人間がいるもので、「それでも、

こんな説もあります」と本を持ってきた。標題「沖縄の民話」(1995年刊)

である。序文に「高校生以上を読者対象に……」と書いてあり、その第一話に

「かじまやーの始まり」を所収している。子供向けの絵本を真剣に取り上げるのも、

大人げないとは思うが、ま、仕方がない。紹介させていただく。


昔、天の神が、天にも届く大きな木を伝って降りてきた。木の下では、降り積もった

落ち葉が、年を経て、ほどよく柔らかい土と化していた。天の神はこの土で、

三対の男女の人形を造った。日の出を待って、生命を吹き込もうとするところへ、

地の神が現れ、これは自分の土だ、と主張する。そこでやりとりがあり、天の神は、

百年に限り、土を借りることとなった。三組の夫婦からは、おおぜいの子供が生まれ、

人の世が繁栄する。ところが地の神は、97年目に迎えに現れた。


計算が合わない。だが、実は、地の神は、百年を1200ヶ月と解釈していたのだ。

太陰暦では、ほぼ四年に一度、閏月があり、その年は13ヶ月になる。この1ヶ月が

積もり積もって、思ったより三年も早く出現した、というわけである。そこで再び、

天の神との議論が始まる。地の神も、人間たちの幸せそうな姿を見て、何とかして

あげたい、という気持ちになってくる。ところが、天の神と地の神には、共通の

上司がいた。仮に上帝と呼んでおく。この土に関する百年貸借契約についても、

すでに報告してある。上帝の手前も、取り繕わなければならない。


そこで二柱の神が考えついたのが、「かじまやー」である。子供のおもちゃである

風車を持たせる。すると、上帝が見ても、地上には97歳以上の人間はいない、

と思うに違いない。めでたし、めでたし……というのがあらすじである。テバの

正統派民俗学的分析にくらべると、やや大衆向き・子供向きではあるが、

太陰暦を持ち出すあたり、まあ、なかなかなものである。しかし、百歩譲り、

この説を採用するならば、97・98論争に決着が付けられるのだろうか。

それを検証する。


太陽暦の1ヶ年は、約365.24日である。太陰暦の1ヶ月は、約29.53日

である。太陰暦の1200ヶ月は、太陽暦では、

 1200×29.53÷365.24=97.02

すなわち97年強であり、勝負あったと、……ところが待たれよ、年齢は

数え年で数えるのであった。数え年は、生まれた瞬間に1歳で、次の元旦

(または節分)に一つ年を増やす数え方である。大晦日に生まれた人は、

翌日に2歳である。96回目の元旦で97歳になってしまう。すると、実際には、


 95×365.24÷29.53=1175.00


実に、25ヶ月も早くお迎えが来てしまう。9月7日まで待ってくれても、

1年以上早すぎる。


それでは、仮に98歳としても、月数・日数の踏み倒しが出てしまうではないか、

と気づいた方、あなたはスルドい。テバもここで、9月9日に祝う事例があった

ことに思い至ったのだ。99歳説、これまで検討の俎上にさえ上がらなかった

新説である。天地二柱の神の優しさを考えると、99歳ぐらいまでは待って

くれそうな気もしてきた。そこで、ここに、提言者としての栄誉を一身に担いつつ、

「かじまやー98・99論争」を、新たに提起するものである。