★テ・デウム★ (2000/09/23) 文化というものは、色や形で、静的に印象されることが多いようです。 沖縄の色となれば、首里城のベンガラレッドや、珊瑚礁のマリンブルー、 この辺が真っ先に浮かんできます。あるいは、独特の屋根瓦とシーサーや、 紅型のフォルムかも知れません。しかしながら、こうした色彩や形状で 説明できる範囲は、その文化全体のうちの、半分にも満たないのです。 実は、動きとか音とかいったものが、相当大きな割合を持っているのです。 たとえばゴシックの大伽藍。その巨大な造形には圧倒されるし、 ステインドグラスを通して満ちあふれる光彩には、思わず恍惚と させられるものさえあります。しかし、通過する目的のみの観光客に とってさえ、何か物足りないものがあります。そうです、この舞台で、 テ・デウムのコーラスが炸裂してみればわかります。それまでの 静的な印象は、きれいに姿を消し、そして、これこそが彼らの文化だ、 という別の像が、ダイナミックに立ち現れます。それは異邦人のわれわれさえ、 皮膚で感じ取ることができるような、強烈な説明力を有しているはずです。 文化にかかわる動きや音のうち、最も根深く、しかもあらゆるものに 染みついているもの、それは言うまでもなく、所作とか言葉です。 特に、言葉には厄介なものがあります。最短でも年単位で滞在しなければ ならないような状況になると、特段に苦労の種にもなります。 ここに、十数年前から不思議に思い続け、そして最近、うっすらと 判ってきた気がすることに、沖縄の「しょ」の文化(仮称)があります。 言語学も文化人類学も門外漢の身なのですが、ここには何か、 「島の心」に通じるものがあるような気もするのです。 【事例1】 B「本当に、ちゃんと先方に電話しておいてよ。」 A「すぐに電話しておきましょか。」 B[内心]……「ましょか」じゃないって。心配だなー…… 【事例2】 A「お昼は何にしますか。」 B「今日はあんまり食欲がないんだよね。」 A「それならおそばにしましょね。」 B[内心]……まだ決めてないって…… 【事例3】 A「課長、そろそろ観月会(月より泡盛)に行きませんか。」 B「もうちょっと。この仕事が片づくまで待ってくれ。」 A「それじゃあ、そろそろ行ってましょね。」 B「だ・か・ら!まだ行けないって言ってるだろ!」 【事例4】 A「課長、是非、この案で行きたいと思います。」 B「やっぱり、俺は反対だな。ダメだよ絶対。」 A「この案で、決裁しましょね。」 B[あまりの会話のギャップに、唖然、絶句] Bは、典型的な「やまと」のヒトにしてあります。そして、それぞれの「しょ」は、 全く意味が違います。しかも、よく考えると、主語も一定していないのです。 簡単に説明すると、次のようになります。 事例1……『一人称』 ただの丁寧語 事例2……『二人称』 勧誘(相手に何かをすすめる) 事例3……『一人称』 おことわり(申し訳ないが、私は……させてもらう) 事例4……『二人称』 強要(絶対、あなたに……してもらう) しかしながら、一つだけ共通の要素があります。全てのケースで、 Aさんは、Bさんの心を、ギリギリまで忖度しようとしているのです。 丁寧語にすぎない事例1でさえ、Bさんが必死に念押しをしたために、 Aさんの「しょ」を誘発してしまったのです。限界まで相手の心を忖度したい、 しかし咄嗟の状況で何かを言わなければならない、このような時に、思わず 「しょ」が出てくるのです。 こうした心の働きが根っ子にある文化ならば、相当に魅力的でしょね。 |